イバイチの幕末の水戸(5)

[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その4 ]

H23-9-15作成
H24-1-25改訂

2−8 部田野(へたの)原の戦い

頼徳は幕営に赴く時、随行した水戸藩家老榊原新左衛門を留守総督に任じ幕府軍に戦いを仕掛けてはならぬと命じていたので、那珂湊の大発勢は頼徳が幕府に刃向かった者として切腹させられたとは露知らず抗戦を控えていたが、10月10日に幕府軍と門閥派は総攻撃を仕掛けてきた。榊原は、幕府軍は攻撃しないと言っていたので、攻めて来た相手は門閥派であるとして筑波勢、武田耕雲斎一派と協力して立ち向かうことにした。

 戦いは那珂湊の北方半里(2キロ)ほどにある部田野(へたの)原(ひたちなか市)で行われた。門閥派の城兵と民兵を先陣にして福島、壬生、宇都宮諸藩の兵がそれに続き進んできたが、それに対し筑波勢、潮来から来た潮来勢が左右から打ちかかり大発勢が正面から猛攻撃を仕掛けた。激しい戦いの末やがて幕府、門閥派連合軍は総崩れとなって第1回部田野原の戦いは筑波勢、大発勢軍の大勝利になった。この時、筑波勢が集結した陣地跡が和尚塚古墳と云う場所にあり、天狗勢稲荷山陣地跡として石碑が建てられている。

 また少し離れた場所に市の史跡に指定されている首塚がある。この時の戦闘での戦死者の首級を葬った場所である。また同じ場所に近くの十三奉行という集落の人々による3年忌供養のための忠勇戦死之墓という石碑が建てられている。

 それより前の9月9日藤田小四郎一派の筑波勢は、田彦宿(現在のひたちなか市内)で宇都宮藩兵と激戦を展開しこれを破ったが、そのため田彦宿は全焼してしまった。この戦いで戦死した宇都宮藩士9名と役夫2名の墓が田彦地区の共同墓地にある。


 また10月10日の激戦の時戦死した福島藩士たちの墓が東中根地区(現在のひたちなか市内)の共同墓地に埋葬されている。また10月10日から10月22日までの戦闘で、当時の部田野村の全てと近くの馬渡村(いずれも現在のひたちなか市内)の大部分が焼き払われた。部田野村の住民は村はずれのむじな穴と呼ばれる洞窟に避難したが、すべてを失って「七年の餓死に会うとも乱に会う勿れ」との言い伝えが残った。

 部田野原から離れた那珂川沿いに徳川光圀によって百種類の樹木が植樹され百色山と名付けられた場所があるが、その一隅に天狗党百色山戦場供養碑が建っている。この付近は三反田村(現在のひたちなか市内)という集落に近く、三反田村は200戸、1300人の村だったが幕府追討軍9500余名が9月から10月の2ヶ月にわたって農家に止宿滞在(延10万人以上)し、篝火を43カ所焚き、そのための人足徴用延4480人などの記録が残っているようである。また9月11日には天狗党による放火があり、戦闘が行われた模様である。

 碑の裏面には辰ノ口武士戦死者とも書いてあり、那珂川河口に近い辰ノ口渡船場付近での戦死者の供養も兼ねているのかもしれない。昭和41年に百年祭記念建立と書いてある。またその傍らには「弔百色山忠魂」として「元治元年天狗戦幾多遺霊此處眠」という前書のあと「身はたとへ那珂川の瀬戸に沈むとも清き心は月ぞ照らさん」の歌、そして後書に「回頭百有余年夢風雲長為弔忠魂」と刻まれている。作詩は宮内智光という人で首塚もここの供養碑も宮内家有縁とあるので所縁のある人と思われる。百色山付近は那珂川の洪水を防ぐ大きな土嚢がずっと並べられ中に入れないようになっていた。

この戦いで大敗した幕府軍は体勢を立て直し、兵力を増強して7日後の10月17日、再び大軍で部田野(へたの)原に進出し総攻撃を仕掛けた。筑波勢、潮来勢は砲撃を繰り返していた高台の幕府軍陣地を急襲してそれを破り、主戦場の部田野原の側面に迂回して攻め立て、また正面から大発勢が突撃したことにより、幕府軍は再び総崩れとなり、多くの武器を捨てて潰走した。第2回部田野(へたの)原の戦いも筑波勢、大発勢軍の勝利で終わったのである。

 しかし一夜明けた10月18日幕府軍は数千の大軍でまたまた総攻撃を行った。筑波勢、大発勢軍はそれを迎え撃ち、苦戦しながらも前進し圧力を加えたので夕刻になり幕府軍は支えきれずまたも算を乱して敗走し、この第3回部田野(へたの)原の戦いも、またまたた筑波勢、大発勢軍の勝利で終わった。しかし筑波勢、大発勢軍も勝ったとはいえ連日の戦いで疲労が甚だしかった。

2−9 大発勢の降伏

 一方、3回にわたる総攻撃がことごとく失敗した幕府軍は討伐の長期化や戦費の拡大、藩兵の不満などを恐れて謀略を用いることを考え、那珂湊軍が尊攘激派の筑波勢、尊攘鎮派の大発勢、後から加わった武田耕雲斎一派と勢力が3つに別れているのに付け込んでその離反を働きかけた。つまり筑波勢、武田勢とは別個の立場にあった榊原新左衛門が率いる大発勢に密かに働き掛け、幕府軍の手引きをして賊軍を討てば斬首などの刑には処せず蝦夷地開拓などに従事させるという条件を示したのである。

 心ならずも幕軍と戦ったという思いのある榊原新左衛門は主だった者と協議した。その頃やっと松平頼徳(よりのり)が切腹させられたことが那珂湊にも伝わり、今回も陰謀ではないかと議論も多く出たが、1,000人以上の大発勢を幕府に反抗した賊軍として死なせるのは忍びないという意見が出て、最終的に幕軍に降伏することになった。

 榊原たちは幕府軍と交渉し、10月23日に幕府軍を引き入れることになった。当日早朝榊原たちに迎えられて上陸した幕府軍は筑波勢、武田勢の天狗勢の陣に大砲を撃ち込み突入したが、天狗勢は前夜のうちに陣を引き払っていてもぬけの殻だったた。大発勢の中から降伏に不服な鮎沢伊太夫などの内応があったためである。

 幕府軍に投降した榊原新左衛門と大発勢1,154名は下総古河藩など二十二藩に預けられ、榊原新左衛門は翌慶応元年4月に主だった者43名と共に切腹させられた。亨年32才だった。他にも各藩の獄で多くの者が過酷な扱いで亡くなっている。

 水戸市谷中の常磐共有墓地に隣接して在る水戸殉難志士の墓には元治甲子の変で亡くなった志士のうち氏名が判っている374名の墓碑が大正3年に建てられた。その前に置かれた碑文には更に昭和8年に建てられた勤皇殉難志士忠魂塔に元治甲子事変殉難者として松平大炊頭頼徳外73名、同じく元治甲子事変殉難者 榊原新左衛門照煦外990名などを含めた1,785名の霊を鎮めたと刻まれている。

 氏名が判っている者は武士で、その外に農民が多数含まれていたが名は不明である。斉昭の藩政改革は農村の復興に重点があり、天保の大飢饉で備蓄米を放出して最小限の餓死者で留めたことなどでも注目された。また水戸の弘道館の下に15の郷校を作り農民など一般庶民の教育を行ったことなどもあって、多くの農民の有志が武士と行動を共にするようになっていたのである。

 榊原新左衛門としては随行すべき松平頼徳は既に居らず、門閥派市川三左衛門の姦計に乗せられて幕府軍と戦ったが、今後どうすべきかの目標が持てず、部下を助けるという名目が達せられれば良いということで降伏に追い込まれたのだろう。その心情は理解できるが、後世の我々としては、もう少しどうにか成らなかったのかと思うのはその悲惨な運命を知っているからなのだろうか。

 左に関連マップを示す。青太字が関連する場所である。









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