葉室 麟の 「蝶のゆくへ」 を読んで
 

2018年12月11日 (月)
蝶のゆくへ      葉室 麟 著   2018年8月発売

 昨年12月に亡くなった葉室麟の遺作の一つである。
 この本は端正な文章を書くいつもの時代小説家の葉室麟とは違って、揺れ動く明治から昭和の戦前の芸術家たちの内面をえぐるように赤裸々に記した異色の作品である。

 この本は新宿中村屋の創業者相馬黒光を主人公とする一代記を描いているが、七章に分けられた内容は、その時々に黒光が出会った著名な人物との関わり合いの中に、その人物の生き方、考え方を浮かび上がらせ、黒光自身の生き方、考え方についても自問していく形態で進められて行き、ストーリーに厚みを持たせるとともに、明治になって己の思うように生きて行こうとする新しい時代の新しい女性たちの生きざまが描き出されている。

 明治維新後、旧仙台藩士星喜四郎の三女星りょう(後の相馬黒光)は明治28年(1895)18才の時、仙台の宮城女学校から東京の明治女学校に移ることになった。宮城女学校の学友、斎藤冬子が居たからである。

 第1章は、その斎藤冬子と明治女学校の若い教師、北村透谷との話である。北村透谷は
「恋愛は人生の秘鑰(ひやく=秘められた鍵)なり」と恋愛至上主義を唱えたことで知られる詩人であり、恋愛結婚をした妻が居た。

 しかし冬子と透谷は出会い、やがて恋に落ちてしまった。やがて冬子は肺病にかかり余命も危うくなり仙台に戻った。その頃りょうは仙台に居り見舞いに訪れる。そしてある日、透谷が自宅で自殺した話を聞いた。そしてその1ヶ月後冬子は病院で亡くなった。

 その後入学した明治女学校で校長の巌本善治から、透谷には「蝶のゆくへ」という詩があることを教えられ、「蝶として飛び立つあなた方を見守るのがわたしの役目」と語りかけられた。

 第2章の主人公は、明治女学校英文科の教師、島崎春樹(藤村)23才である。透谷と藤村は同じ小学校の先輩後輩の間柄だった。その関係もあって藤村は透谷の死後、書き散らかされた原稿をまとめて透谷全集を作った。

 その藤村が同じ明治女学校の女子学生の佐藤輔子に心を奪われ、その思いを後に「まだあげ初めし前髪の…」で始まる「初恋」の詩を書いたといわれている。
 藤村は以前輔子と思われる女性の待つ家に行ったのだが、その相手が輔子かどうか判然としないため、りょうに真相を確かめて貰う話である。

 第3章は、従妹の佐々木信子が結婚したばかりの国木田独歩から逃げてきた話である。駆け落ちまでして結婚した二人だったが、考え方の違いから信子の方から別れることにした。しかしその後、多くの紆余曲折があり、独歩は信子をモデルに「鎌倉夫人」を書き、有島武郎は「或る女」を書いてそれぞれ日本文壇に大きな影響をもたらした。

 第4章は、女学生の身投げという新聞記事がりょうのことを書いたように暗示させるので、訂正記事を出させる手段として勝海舟伯爵の助力を仰ぐことになった。当時明治女学校には海舟の三男と結婚して同じ屋敷に住んでいる米国人英語講師クララが居たのである。
 クララの尽力により事件の全貌を知り解決に向かったが。クララが心酔している明治になってからの海舟の日常の言動なども述べられている。

top↑

 第5章では、明治女学校が大火に逢い、校舎や寄宿舎が焼けてしまう事件があった。校長の巌本善治の妻松本賤子は結核を病んでいたがこの時氷雨に打たれて病状が悪化し、寝込んでしまった。賤子はバーネット夫人の「小公子」を言文一致体で翻訳したことで知られている作家、翻訳家である。

 りょうが校門の前で賤子を見舞いに来た樋口一葉に逢ったが、当時巌本が発行していた「女学雑誌」に執筆していた三宅花圃が近づいてきて賤子に逢わせずに帰してしまう。そのことから、一葉に関するエピソードが語られていく。

 第6章は、相馬愛蔵との結婚の経緯と信州での生活で健康を害し、上京して中村屋を開業し、成功させる話が簡潔に述べられている。

 その頃りょうは巌本から黒光というペンネームを与えられていた。才気があふれて光がほとばしることをたしなめ、黒い光をこそ、という意味が込められていた。

 その後、りょうの中村屋には荻原碌山、中村彝(つね)、中原悌二郎などの若い美術家が出入りしてサロンを形成し、いつしか新宿中村屋のサロンの女王、相馬黒光という名で知られるようになる。
 
 また同時に、りょうと対照的な女性として夫と子供を捨てて愛人を追ってロシアまで渡ったという瀬沼夏葉という閨秀作家の生きざまを描いている。

 第7章は、荻原碌山(守衛)のことから始まる。守衛は信州穂高生まれで相馬家に集まる若者の一人だった。守衛は絵を学ぼうとりょうの紹介で、明治女学校校長の巌本善治を頼って上京した。その後守衛はフランスに渡り、ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家を目指すことにした。

 フランスのアカデミー・ジュリアンで学んだ守衛は校内コンクールで、グランプリを獲得するなどして実力をつけロダンからも教えを受けた。そしてロダンとカミーユ・クローデルとのエピソードを知る。

 やがて28才になった守衛は碌山と号し、帰国し新宿西口にアトリエを構え中村屋のサロンの中心人物になって行った。帰国して2年後に「女」という像を完成させた守衛はその1週間後、中村屋で喀血し亡くなってしまう。

 その後中村屋のサロンには量の長女俊子が加わった。中村彝もその頃サロンに出入りしており俊子をモデルに「少女裸像」という絵を発表した。また同じくサロンに出入りしていたロシヤの盲目の詩人エロシェンコの肖像画を描いている。

 俊子はその後エロシェンコと同じく中村屋に迎えいれ、日本に帰化したインド人革命家のビハリ・ボースと結婚することになる。

 そして最後にりょうと相馬愛蔵の没年を記入して、りょうとかかわりのあった人々のエピソードを通じてりょうの人生を物語っているのである。

 小生は信州安曇野には、安い価格で宿泊できる会員権を保有していて毎年のように訪問していた時期があり、わさび田や道祖神、穂高神社、安曇野ちひろ美術館、安曇野山岳美術館などの多くの美術館などを訪れた。碌山美術館にも4回ほど訪れている。(写真は碌山美術館入口)

また水戸の茨城県近代美術館には水戸出身の中村彝が東京新宿にあったアトリエを復元してあり、彝の絵も何点か保有しているので親近感を持っていた。

 また荻原碌山の「女」も中村彝の「エロシェンコの像」も、共に重要文化財に指定されており、碌山は30才、彝は37才の若さで亡くなっていることもこの本に対する印象を深くしていると思う。

(写真は「女」、「エロシェンコの像」

 第5章にある樋口一葉と三宅花圃の確執は、和歌を教える「萩の舎」を主宰した中島歌子が、幕末に天狗党の水戸藩士と結婚して苦難の道を歩いた話を、朝井まかてが書いた「恋歌」にも記されており、興味深く読めた。

 折角、葉室麟の新境地を開いたと思われるこのような作品を、今後、読めなくなくのは残念極まりないことである。

top↑

(この項終わり)


            Home