イバイチの奥の細道漫遊紀行

[信夫の里]

H21-9-10作成

安積山

 須賀川を出立した芭蕉一行は郡山を経て歌枕の地、安積(あさか)に立寄った。古今集に「みちのくの あさかの沼の花かつみ かつ見る人に恋やわたらむ」の歌があるという。芭蕉は 「いずれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、『かつみ 〃 』と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。」 と夕暮れまで探し歩いたが知る人は居なかったと記している。

 現在、郡山市は姫シャガを花かつみとして市の花に制定しているそうである。 郡山市の磐越自動車道の近くにある日和田という場所に安積山公園があり、その付近にあさかの沼があったといわれている。公園内に、万葉集の安積采女が詠んだ 「安積山 かげさへ見ゆる山の井の あさき心を わが思はなくに」 の歌碑と、おくのほそ道の 「あさかの沼」 の1節を刻んだ碑が建てられている。
 今から千二百年ほど前、葛城王(かづらきのおおきみ)が巡察の為に安積の里に訪れた時、里長の娘が上記の「山の井」の歌を詠み、それが縁で宮廷の采女(女官 )として参内し帝の寵愛を受け安積采女と呼ばれた。しかし采女は安積の里に残した許婚が忘れられず、故郷に戻ってきたが、嘆き悲しんだ許婚は山の井の清水に身を投げていた。それを知った采女は雪の降る寒い日に同じ山の井の清水に身を沈めた。やがて雪が溶け春が来た頃、山の井の清水のまわり一面に薄紫の美しい可憐な花が咲き乱れた。それ以来里の人たちはこの花を「安積の花かつみ」と呼んだという伝説がある。 それを知る芭蕉は、夕暮れまでその花を探し求めたのである。山の井の清水は、現在安積山公園内に設定されているが、当時は離れたところにあったといわれている。二つの碑の周辺には花かつみやつつじが沢山植えられていて、5〜6月頃の安積山麓はさぞ華やかになるのだろうと思った。

 二本松 黒塚

 東北自動車道の二本松ICから国道4号線に入り少し走ると左手に安達ヶ原公園入口の標識がある。ここに芭蕉が立寄った黒塚の岩屋がある。これは謡曲「黒塚」にある鬼女が住んだという岩窟で、付近は伝説鬼ばばあの里「安達ヶ原ふるさと村」となっている。鬼婆が住んでいたといわれる岩屋は観世寺という鬼婆を退治した僧が開いた寺の境内にある。正岡子規が訪れて詠んだ 「涼しさや 聞けば昔は 鬼の家」 の句碑がある。(写真は観世寺の観音堂とその背後にある鬼の岩屋)

 鬼婆を埋めた黒塚は寺の外れの大きな杉の木の下にあり、「みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれると聞くはまことか 平 兼盛」 の歌碑が建てられている。謡曲「黒塚」はこの和歌を基にして創られたと言われる。(写真は黒塚碑と歌碑)

 おくのほそ道には 「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」 と簡単に書いてあるが、二本松からは安達太良山が好く眺められ、詩人高村光太郎の妻千恵子の出身地でもある。黒塚の岩屋の近くに「千恵子の杜公園」と千恵子の生家がある。また二本松城址の霞ヶ城公園は菊人形で名高く、今年(平成19年)で53回目となり、昭和20年代後半から続いている日本最大の菊の祭典だそうである。今年(平成19年)の出し物はNHK大河ドラマの風林火山である。霞ヶ城公園は紅葉も素晴らしいが、春は桜の名所でもあり、まだ雪のある安達太良山を桜花の彼方に望む景色は一見の価値がある。(写真は千恵子の生家)

福島 信夫文知摺

 二本松から福島までの国道4号線は片道2車線で信号もあまり無く、走る車も少ないので快適なドライブが楽しめる。市内で国道115号線に入って文知摺観音に着く。門前に芭蕉の立像が置かれており、台座にはおくのほそ道の 「あくれば、しのぶもじ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部(わらべ)の来りて教ける、---- 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」 という信夫文知摺の段が刻まれている。この境内に歌枕で知られる文知摺石がある。拝観料を払い境内に入るとスピーカーで信夫文知摺の縁起を聞かせてくれる。
 文知摺石とは自然の石紋と綾形のある高さ2m巾3mの巨石で、その石紋と綾形及びしのぶ草の葉形などを摺り込んだ風雅な模様の「しのぶもちずり絹」という織物がこの地にあり、その製法は文知摺石の模様のある石の面に絹を当て、しのぶ草をこすりつけて染めるのだといわれている。その文知摺石は芭蕉が来た時には「石半ば土に埋もれて」の状態だったが、明治時代に掘り上げられて巨石の全貌が見られるようになったとのことである。
 またここは都から来た源融(とおる)と、この地の長者の娘虎女との悲恋物語の舞台になったところでもある。その物語の内容は陸奥国按察使(あぜち)(巡察官)源融がこの里に来て、長者の娘虎女となじんだ。しかし間もなく任期が満了し、融は虎女をおいて帰郷してしまう。残された虎女はこの石の表に融の面影を見て再会を待ち続けたと伝えられる。文知摺石のそばに芭蕉の 「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」 の句碑がある。


 文知摺観音多宝塔の近くに小倉百人一首にある河原佐大臣源融の「みちのくの 忍ぶもぢずり誰故に 乱れそめにし我ならなくに」の歌碑がある。また千載集に「陸奥の 忍ぶもぢずりしのびつゝ 色にはいでじ乱れもぞする 寂念法師」が載せられており、歌枕の地として知られるようになった。
 正岡子規の「涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり」 と詠んだ句碑もある。境内には文知摺観音堂,多宝塔や最近作られた源融と虎女のアベックの墓、芭蕉や子規の真筆が展示されている「もちずり美術資料館伝光閣」などがある。境内の奥には広場があり、その周囲には紅葉などが多く植えられていて、春秋に歴史を偲んで散策するには絶好の場所である。  (写真は文知摺観音多宝塔、源融の歌碑、子規の句碑)  
 (H13-10-8訪・H19-12-4再訪)


注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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