イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 多賀城 ]

H21-9-28作成  

おくのほそ道(岩切)

 仙台から国道4号線から分かれて県道8号線に入り、岩切に向かう。岩切には東光寺という寺があり、おくのほそ道の碑が建っている。「おくのほそ道」の宮城野の段の最後に、 「かの画図(がと)にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国主に献ずと云り。」 (注:画図=画工加右衛門が書いた絵図) とあり、芭蕉はこの文章から書名を「おくのほそ道」にしたと云われる。この辺りには菅が群生し、それを使って編み目が十筋の筵を作っていて、それが十符(とふ)の菅(すげ)という歌枕になったと云われており、その場所が岩切界隈だったそうである。十符の菅菰を詠んだ歌は、「陸奥の 十符の菅菰七符には 君をねさせて我三符にねん」 詠み人知らず 夫木和歌抄、「 水鳥の つららの枕隙もなし むべさえけらしとふの菅こも」 源経信 金葉集、がある。 (写真は東光寺入口のおくのほそ道碑)

多賀城跡

  岩切から県道35号線を多賀城に行く。多賀城の歴史は古く、奈良時代初期の神亀元年(724年)に陸奥の国府,鎮守府が置かれ、その後約200年間東北地方の政治の中心地だった。その頃都から赴任した人々が歌を詠み、歌枕の地が多く残っている。現在は特別史跡多賀城跡として、奈良の平城宮跡、九州の大宰府跡と並んで日本の三大史跡の一つに数えられており、奈良・平安時代を偲ぶ史跡公園として整備が進められている。
 多賀城跡(政庁跡)に行く。小高い丘陵地の約100メートル四方の敷地に礎石と土壇だけがあり、あとは芝生を植えてあるだけで、折りしも降り始めた雨を除ける場所も無い。千三百年前を偲ぶにはもう少し何らかの道具建てが欲しいところだ。南北朝時代の義良親王(後村上天皇)の碑があるが、南北朝時代に北畠顕家が義良親王を奉じて奥州小幕府を開いた多賀国府は、平安時代に別の場所に移転してその場所は不明だといわれている。

壷の碑

 芭蕉が訪れた壷の碑(いしぶみ)は多賀城政庁跡の南門近くにある。遥かな丘の上に政庁跡の緑地が見える。多賀城は100メートル四方の政庁を中心に500メートル四方を土塁で囲んだ大規模な施設で四方に門があったが、南門が正門で政庁の権威を示す2層の立派な大門だったらしく復元図が画かれている。 壷の碑はその南大門跡の近くにある鞘堂の中にひっそりと安置されていた。
 格子戸の隙間から覗くと西という字だけが大きくて読めるが、あとは小さくて薄暗い堂の中の光では判別できない。芭蕉も「つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)カ。苔を穿て文字幽(かすか)也」と書いている。 この碑の後半にに「多賀城が神亀元年(724年)に按察使(あぜち)鎮守府将軍の大野朝臣東人が設置した」と書かれていることによって多賀城が何時から開かれたのか判るのである。
 また前半には 「  多賀城 去京一千五百里    去蝦夷国界一百廿里    去常陸国界四百十二里    去下野国界二百七十四里    去靺鞨国界三千里   」 と書かれている。


 芭蕉は更におくのほそ道に「むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也」 

と今まで立寄った歌枕の地の多くが変わり果てていたのに、ここに聖武天皇の頃から確かなものとして存在していることに心を打たれたのである。そして、この時の流れの中で変わり果てるものに対して変わらないものを見出したことが、この旅のあとに「不易流行」を説く機縁になったといわれている。

 壷の碑について、西行は 「陸奥の おくゆかしくぞおもほゆる 壷の碑外の浜風」 と詠み、寂蓮は 「みちのおく 壷の石文ありと聞く いづれか恋の堺なるらむ」 源頼朝は 「陸奥の 磐手忍ぶはえぞ知らぬ 書尽してよ壷のいしぶみ」 など多くの歌人が詠んでいる。壷の碑の近くに芭蕉の句碑「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」と西行法師の「むつのくの おくゆかしくそおもほゆる つほのいしふみそとのはまかせ」の歌碑がある。ここも訪れる人は少なく、2〜3組の人達がちらほら居るだけで芭蕉と同じ様な感慨にふけることが出来た。


東北歴史博物館

 多賀城碑から近くにある東北歴史博物館に行った。平成11年オープンの新しい施設で、中尊寺金色堂の螺鈿をちりばめた柱の一部のレプリカが置かれていてその豪華さが偲ばれた。しかし多賀城を拠点とした中央政府と先住民族である蝦夷との関係や源頼朝時代の奥州動乱についての展示が少なく、伝説や言い伝えでとしてでも当時のみちのくの人々の視点に立った展示を入れなければ、東北歴史博物館の名前が泣くのではないかと思った。

沖の石・末の松山

 多賀城には京の都から赴任してくる高官が多いせいもあるのか周辺には歌枕が多い。芭蕉は 「野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山という」 と歌枕の地を巡り歩いた。そのあとを辿ろうと東北歴史博物館に近接した多賀城廃寺跡を見た後、多賀城駅前の観光協会に立寄り歌枕の場所を教えてもらう。案内図に従いまず 「沖の石(奥の井)」 とその近くにある 「末の松山」 に行った。

 「沖の石」 は嘗ては海中にあったと思われる岩石群のことで、小倉百人一首にある 「わが袖は しほひにみえぬおきの石の 人こそしらねかわくまぞなき」 という二条院讃岐の歌で知られている。また小野小町の歌にある 「おきのゐて 身を焼くよりも悲しさは 都島べの別れなりけり」 はこの「沖の石」が「奥の井」の意味も重ねていて詠んだといわれる。 ともあれ現在は街中の小さな池の中にあって見映えのせぬことおびただしい。


 沖の石から徒歩で2〜3分の所に 「末の松山」 がある。これも小倉百人一首にある「ちぎりなき かたみに袖をしぼりつつ すゑのまつ山なみこさじとは」と詠んだ清原元輔(清少納言の父)の歌で有名である。ほかにも「君をおきて あだし心をわが待たば 末の松山波も越えなむ」という古今集奥陸歌の歌があるが、昔は多賀城から海が臨まれ、このあたりが海に至る松山の末端だったらしい。
芭蕉は歌枕を尋ねた記述の後、「松のあひあひ皆墓はらにて、翼(はね)をかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくの ごときと悲しさも増りて」 と、変わらぬ愛を誓った末は皆墓に入ってしまうのだ。と無常を感じる文章を続けている。しかし、現在も二本ある末の松の後ろには、末松山宝国寺の墓石が立並んでいるが、海のあった方向は住宅がびっしりと建っており、とても無常を感じる雰囲気ではなくなっている。

野田の玉川


 本降りになった雨の中を 「野田の玉川」 に向かった。 「野田の玉川」 は小川を整備して公園にしてあるが、ここは能因法師が 「夕されは 汐風越してみちのくの 野田の玉川ちとり鳴くなり」 との歌を詠んだところである。野田の玉川に架けられた「おもわくの橋」には安倍貞任と恋人「おもわく」との恋物語が伝えられ 「ふまゝうき もみちのにしきちりしきて 人もかよはぬおもはくのはし」という西行法師が歌を詠んだところと言われている。しかし両者とも昔を偲ぶ面影は全然無く、当り前のことだが芭蕉の時代より更に歌枕が形骸化していることを痛感する。
 (H14-5-7)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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