イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 平泉 1 ]

H21-10-25 作成 

柳之御所遺跡,無量光院跡

 一関インターから15分ほどで柳之御所資料館に着く。ここは800年から900年前の平安後期に奥州藤原氏の政庁があった所で国指定になっている柳之御所遺跡に隣接して在り、発掘された遺物が展示されている。また直ぐ脇を流れる北上川の歴史,治水計画などの紹介をしている。大雨の時には遥か遠くの束稲(たばしね)山の麓までの広大な田圃が遊水池になり、市街地を洪水から防いでいるそうである。

 今年(平成14年)も梅雨の頃の大雨で三ヵ所の遊水池がすべて水で覆われたと云うことで、大きな湖水が出現したような写真が展示してあった。また発掘により遺跡の規模が意外に大きいことが判り、建設中の国道4号線バイパスは当初計画より大きく迂回するように変更されたのことである。資料館から北上川に沿って北側に開けた広い草地があるが、ここが奥州藤原三代目秀衡の頃の政庁跡と言われている柳之御所遺跡で、白磁の壷や銅製の印章などが出土し今も発掘調査が行なわれている。

 柳之御所遺跡の先は小高い岡になっており、義経が住んでいた高館に連なっている。また資料館の西方には三代秀衡,四代泰衡の住居だった伽羅御所跡があるというが、現在は民家が多く建っていて昔の面影はまったく無い。四代泰衡は義経の首を鎌倉に送ったが、頼朝は許さず奥州征伐の軍を起した。泰衡は阿津賀志山の戦闘で奥州側が破れたのを知ると平泉の街に放火して逃げ、鹿角で部下に殺されるのだが、この時に御所、無量光院など市街地にあった建物は全て灰燼に帰した。山裾にあった中尊寺、毛越寺、観自在王院などは残ってのだが、後年火災により消失し金色堂以外は現存していないのである。

 柳之御所遺跡から高館方面に少し行った田圃の中に無量光院跡がひっそりとある。三代秀衡が宇治平等院を模して建立したといわれ、昭和27年の発掘調査により広壮な寺院だったことが判ったという。
 一面の田圃になっている池跡の中央に中の島がありその上に平等院の鳳凰堂より一回り大きい浮き御堂と左右に伸びる翼廊が建てられていたというが、現在は跡地の標柱と由緒,解説が書かれている案内板があるだけで、訪れる人も無い静寂のなかを沢山の赤とんぼがが舞い飛んでいた。池跡の島は中央の中の島以外にも幾つかあり、そろぞれに大きな松が生い茂っている。稲の刈り取られた水田に水を満たせれば、堂宇は無くても点在する島影に昔の荘厳な御堂の面影が静寂のなかに甦るような気がした。

義経堂

 無量光院跡から少し北上した丘陵地に高館義経堂がある。丘上の高台から見渡せば眼下に北上川の流れがあり稲田を隔てて束稲(たばしね)連山が連なる景勝の地である。北上川の上流には右手に白鳥の柵,左手に衣川が見える。
 高台の右側に芭蕉の 「
夏草や 兵どもが 夢の跡」 の句と 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。----」で始まるおくのほそ道,平泉の段の一節を記した碑がある。
 左側の小径を更に登った丘の頂には仙台藩第四代藩主伊達綱村が建立(1683)した義経堂がある。義経が挙兵した頼朝の許に遥々奥州から馳せ参じ、黄瀬川で感激の対面をしたのは治承5年(1181)22才の時である。その後平家を滅ぼした義経が頼朝と不和になり奥州平泉に戻ったが、義経を庇護した三代秀衡が亡くなり、後を継いだ四代泰衡が頼朝の圧力に屈して、高館に住んでいた義経を急襲し自殺させた。文治5年(1189)義経31才の時である。。((写真は高館義経堂からの束稲山と高館義経堂の句碑)


 この十年足らずの間の義経の栄枯盛衰を、芭蕉は  「偖(さて)も義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」 とおくのほそ道に書き記し、その後に直ぐこの場所で詠んだ様に「夏草や----」の句と曽良の「卯の花に----」の句が続くのである。


 しかし義経堂のある高館は見晴らしは良いが狭い台地であり、「夏草や----」の句から思い浮かぶ広々とした草の生い茂った古戦場の面影はまったく無い。遥かに衣川の柵の方向を眺めて、当時を思い浮かべた芭蕉の胸中に生じた想念なのだろうか。(写真は高館義経堂から衣川の柵、白鳥の柵の方向を臨む)

 高館を降り、少し北上するとJR東北線の踏切を渡り中尊寺に行く道との岐点に、「卯の花清水」 と呼ばれる小さな湧き水がある。この高館周辺は昔から卯の花が沢山咲いていた所で、そこに湧く清水に土地の人が何時しか花の名を付けたという。
 清水の湧く付近は小さな園地になっており、曾良の 「
卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」 の句碑がある。兼房は、義経の北の方の乳人である増尾十郎兼房のことで、白髪を振り乱して奮戦し、義経の最後を見届けた後、館に火を放って壮絶な死を遂げたといわれている。(写真は卯の花清水と曽良の句碑)   (H14-10-14)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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