イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 平泉 3 ]

H21-10-25 作成

毛越寺

 中尊寺から毛越寺までは車で数分の近さである。毛越寺の手前には観自在王院跡があり舞鶴ヶ池という大きな方形の池が復元され史跡公園になっている。ここは2代基衡の夫人が建立したといわれ、大小の阿弥陀堂が池に面して建てられていたとのことだが今はその面影は無く、芝で覆われた礎石が散見されるだけである。
 毛越寺は藤原2代基衛の造営であるが、吾妻鏡に依るとその規模は中尊寺の堂塔40余宇,僧坊300余に対し、堂塔40宇,僧坊500余といわれ中尊寺よりも壮大な伽藍が建ち並んでいたということで、なかでも中心伽藍である金堂の装飾は金色堂より多彩で素晴らしかったということである。門を入ると正面に本堂がある。これは平成元年に再建されたものでまだ新しい。
 37年前の昭和41年に初めて訪問した時は浄土庭園しか無く、荒れ寂れた印象だったが、今回は見違えるほど良く整備されていた。勿論当時は本堂は無く、池中の立石を中心にした石組みだけが強く記憶に残っている。(写真は庭園から本堂を遠望)

 芭蕉は毛越寺を訪れなかったが、本堂に行く広場の右手に芭蕉の親筆を写したと言われる「夏草や----」の小さな句碑がある。はじめ高館に建てられていたものを毛越寺境内に移したそうである(高館は毛越寺が所有している)。その隣に芭蕉が訪れてから約110年後に平泉の俳人素鳥が建てた同じ句の大きな碑が並んである。 また、だいぶ離れた場所に新渡戸稲造が英訳した「夏草や---」の句碑がある。 「The summer grass  Tis all thats left  Of ancient warriorsdream」 と刻まれている。

 本堂の右手の南大門跡を通り、浄土庭園大泉ヶ池に行く。池の中央にある中島のはるか先には金堂円隆寺跡がある。藤原2代基衛が万宝を尽くして建立した毛越寺の中心的伽藍の跡である。当時は南大門から中島を経て対岸まで二つの橋で結ばれ、左右の経楼,鐘楼の間に金堂円隆寺の伽藍が望まれていた。金堂円隆寺跡の左手には講堂跡があり右手には曲水の宴を行った遣水跡が最近発見され復元されている。
 南大門跡から池を眺めると右側には毛越寺のシンボルとでも云うべき出島石組と池中立石がその印象的な景観を形造っている。池を一周すると江戸時代初期に再建された開山堂,常行堂があり、他に建物は無いが堂宇跡が多くある。池畔には築山,砂州,出島をしつらえて変化をつけた構成である。折しも夕日が池面をやわらかく照らし出し、小川のせせらぎと小鳥の声以外は何も聞こえない静寂そのものの径を歩くと、身も心もゆったりとして文字通り浄土の庭園を歩いているような気分になる。

達谷の窟

 毛越寺から車で5分ほどの所に達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂がある。曾良の随行日記には「タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由」とあり芭蕉一行は行かなかったのだが、わざわざ不行と断っているのは最初は行く予定だったのかもしれない。
 この場所は、参考資料として読んだ高橋克彦著の「炎立つ」に出てくる悪路王アテルイの根拠地だったといわれる。「達谷窟毘沙門堂」は征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を記念して延暦20年(801)に京都の鞍馬寺から毘沙門天を勧請し祀ったものと伝えられている。しかし火災により焼失し現在の堂は昭和36年に5代目の堂として再建されたものという。
 達谷窟は伝説によると約1200年の昔、悪路王を首領とする赤頭,高丸ら蝦夷の一味がこの窟に要塞を構え、良民を苦しめ女子供をさらうなどの悪行三昧で国府もそれを抑えられなかった。それで桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐を命じられた。延暦20年に田村麻呂は窟に籠もる蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王らの首をはね、蝦夷を平定した。田村麻呂はその戦勝を毘沙門天のご加護と感じ、悪路王の窟の跡に京の清水寺を模した毘沙門堂を建立し、百八体の毘沙門天像を納めたというのである。
 また続日本紀には、延暦8年(789)に紀古佐美を征夷大将軍とする大和朝廷軍は蝦夷征伐に出掛けたが、衣川付近で阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を首領とする蝦夷軍に大敗し、その後征夷大将軍になった坂上田村麻呂が延暦21年に悪逆無道の阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を打ち破り降伏させたと記されているとのことである。

 続日本紀は大和朝廷側から書かれたものであるのでアテルイとモレを悪逆無道としているが、蝦夷側から見ると自分たちの生活圏が大和朝廷側の圧迫に耐えかねて蜂起したのであり、アテルイとモレは英雄であると言われたのではないだろうか。毘沙門堂はそんな彼らを成仏させる意味もあったのだろう。
 その後の奥州での大きな戦いである前九年の役でもそうだが、現代に至るまで歴史の記述は常に勝者側によってなされるので、敗者は殆どそのすべてが悪者にされてしまうものである。東北出身の「炎立つ」の著者、高橋克彦は「火怨(北の耀星アテルイ)」で蝦夷の視点に立って、アテルイとモレ対坂上田村麻呂や大和朝廷軍との戦いについて印象深く書いている。(写真は毘沙門堂)
 
毘沙門堂は高い床下を持った2階建ての建物である。御堂の半分は窟の中に隠れ、広い床下の空間は諸国行脚の者、合戦に敗れた兵士などが身を休めたという。毘沙門堂の西方にある約30メートルの高さの岸壁に大きな磨崖仏が刻まれている。現在は胸から下が地震により崩落しているが、岩面大仏と呼ばれていて北限の磨崖仏として知られているそうである。

 芭蕉はおくのほそ道での最大の目的だった歌枕をたどる旅と義経を偲ぶ旅が、平泉を訪れることで果たすことが出来、更に「夏草や ----」の名句も生まれて、さぞほっとした心境だっただろう。平泉に到着したのは陽暦の6月28日の梅雨の真っ只中で江戸を出立してから43日目である。この後一関に更に1泊し、奥州山脈を横切って日本海側に向かう第二幕に移るのである。
 (H14-10-14訪)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。



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