イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 尾花沢 ]

H21-11-11作成 

芭蕉清風歴史資料館

 山刀伐峠を越えて尾花沢市芭蕉清風歴史資料館に着く。ちょうど雨も上がって資料館前の芭蕉像前で写真を撮り資料館に入る。内部には「紅花大尽」と云われた鈴木清風の事跡,エピソード,俳諧と芭蕉との交友などの資料が数多く残されている。 紅花は、当時最上川の中流域の一大特産品であった。特に最上川をいただく村山地方は良質で鳴らした「最上紅花」の産地として知られ、最上川の舟運を利用して上方や江戸にその積荷が運ばれた。

 尾花沢は羽州街道の宿駅であり、最上川舟運の要所・大石田に隣接していることから紅花の集散地として大いに栄え、村山地方の各生産地、広くは奥州各地から紅花の積荷が届けられた。尾花沢の商人は、こうした紅花や米、青苧などを上方や江戸で売りさばくことによって経済力を高め、その1人、島田屋鈴木清風は、「紅花大尽」の異名をとった別格の豪商で、豊かな財力をもとに金融業も営んでいだ。

 資料館には清風が手練手管の江戸商人と紅花の商売で一歩も引かずに渡り合った逸話が 10枚ほどの色紙に展示されている。それは、元禄15年(1702)の夏のこと。江戸の紅花問屋は、紅花の値を下げる思惑で不買同盟を結んで清風の積荷の買い付けを拒否した。この結託を知った清風は、誰も買わないなら持って帰ることもできないのですべて焼き払うとして品川の海岸で山と積んだ荷に火をつけた。
 この話が巷に流れると、紅花の価格は暴騰した。実は清風のこの仕業は見せ掛けで、本物の紅花は倉庫に隠し火をつけたのはかんな屑だったという。こうした経緯で三万両の利益を得た清風であったが、清風はこれを真っ当な商売と受け取らず、儲けた大枚をすべて吉原で働く遊女の休養のために使い果たしたという。
 鈴木家秘蔵の柿本人麿の像は、このことが縁となり吉原の高尾太夫から清風が貰い受けたものと伝承されている。
 インターネットの「俳聖松尾芭蕉・みちのくの足跡」によると、清風と芭蕉は江戸・京都の談林派の俳人を通して知り合い、芭蕉は貞享2年(1685年)6月2日、江戸小石川で清風歓迎の古式百韻の俳諧を興行し、翌年も芭蕉、清風、曽良などを連衆とする七吟歌仙をしたという。「おくのほそ道」の旅での清風邸訪問は、そのような二人の交友歴が礎となって自然発生的に決まったものだったようである。尾花沢到着の時期については旅先から大凡のことが清風に伝えられ、これに対し清風は、到着が紅花の開花期に重なった場合、十分なもてなしが出来なくなる懸念を予め芭蕉に伝えていたものと見られる。
 そのため曽良旅日記には5月14日に岩出山に宿すと記した後に中新田、小野田、門沢、渫沢経由の、現在の国道347号線(中羽越街道)沿いから少し入った軽井沢越えの地名を列記しているが、土地の人に聞いたところ、この道が 「道遠ク、難所有之由故」(曽良旅日記、5月15日の条)、のため現在の国道47号線(北羽越街道)の尿前の関を通る鳴子経由に変えたのである。
 更に堺田で当時のメインルートである背坂峠の道を 「小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故」 ( 17日の条)として山刀伐峠を行くことに変更したのも、紅花の開花時期を鑑みての近道選択だったように思われる。しかし芭蕉が尾花沢に到着した時には島田屋は既に繁忙期に差し掛かっており、清風は思案の末、喧騒の店(たな)を離れ近くの養泉寺で長旅の疲れを癒すことを勧めたのだと述べている。

養泉寺

 続いて芭蕉が宿泊した養泉寺に行く。現在の寺は明治期の火災により焼失したあと再建されたのだが昔日の面影は無い。芭蕉が止宿した時は修復直後の木の香も新しく、段丘の端に位置して涼しい風が吹き抜け遠く・月山が眺められるなど快適なところだったという。現在でも寺の裏手に廻ると眼下の水田の先に遥かに鳥海山を望むことが出来る。境内には涼み塚という芭蕉の句碑があり、「涼しさを 我が宿にして ねまる也」と刻んである。裏にある漢文の碑誌によると宝暦十二年(1762年)に柴崎路水,鈴木素州という二人の俳人の建立ということである。 涼み塚の傍らに「壺中居士」とだけ刻んだ碑が建っているが、これは山寺立石寺に「せみ塚」を立てた俳人とのことである。

 また近くに加藤楸邨揮毫による「すゞしさを----」歌仙の表4句を刻した芭蕉連句碑が建てられている。「すずしさを 我やどにして ねまる也   芭蕉」 「つねのかやりに 草の葉を焼く  清風」 「鹿子立 をのえのし水 田にかけて  曾良」 「ゆふづきまるし 二の丸の跡  素英」とある。素英は清風の友人で忙しい清風に代わって芭蕉をもてなした俳人である。芭蕉と曾良は居心地が良かったのか尾花沢に10泊もしている。

 歌仙とは連句(俳諧の連歌)のやり方の代表的なもので、最初の人が発句という五七五の句を詠み、次の人が七七の句を続け、三人目の人がまた五七五の句、4人目が七七の句を読むということを続け、36の句が出揃ったところで終了する。それを和歌の三十六歌仙に引っ掛けて「歌仙を巻く」という。俳句はその発句を独立させたものである。芭蕉は「俳句では私より優れた者も多く居るが、俳諧に於いては私の右に出る者はいない」と俳諧師としての自分を自負していたということである。

 おくのほそ道の尾花沢の段には最後に「涼しさを 我が宿にして ねまる也」 「「這出よ かひやが下の ひきの聲」 「「まゆはきを 俤にして 紅粉の花」 「蠶飼する 人ハ古代の すがた哉  曾良」 の4句が記されている。 「角川ウィークリー百科おくのほそ道を歩く」では、最初の句は清風への感謝の気持ち、第二句はすっかりくつろいでいる様子、第三句は一転して華やかな紅花、最後の句で全体のまとめという起承転結の構成になっていると説明している。
 芭蕉は歌枕をたどり、義経を偲んで平泉まで行ったことで目的の大半を達したとの思いがあったのではないだろうか。次の目的地の象潟まではめぼしい歌枕もなく、山刀伐峠の難所を無事に過ぎて、旧知の清風に会ってのんびりした様子が、前記の4句と10日間の長期滞在、及び予定になかった山寺への寄り道などによく表れていると思う。

銀山温泉

 尾花沢から車で国道347号線を30分ほど走ると銀山温泉がある。芭蕉は行けなかったが、「奥の細道漫遊紀行」の旅人としては是非宿泊したい温泉だった。
 銀山温泉は川に沿って13軒の宿があるが、道が狭いので宿泊客・観光客は駐車場から歩いて温泉街に行くことになっている。宿泊先の「永澤平八旅館」の出迎えを受け石畳の歩道を歩き宿に入る。銀山温泉は銀山川を挟み木造りの3層〜4層の屋根が重なっている宿屋が軒を連ねており、大正ロマン溢れる秘境の温泉として有名である。

 中心にあるのが四階建てで国の登録文化財に指定されている「能登屋旅館」だが、今回宿泊した「永澤平八旅館」はその奥隣にある三階建ての立派な旅館である。また手前隣は青い目の女将で知られた「藤屋旅館」である。宿では3階の通りに面した眺めの良い部屋に通された。露天風呂に入り、湯上りに部屋の窓からガス燈の灯りで夕暮れの小雨に煙る温泉街を眺めるのはなかなか風情がある。

 女将が挨拶に来て、尾花沢はすすきが沢山生えていたのでその名が付いたとか、江戸時代の宿屋として永澤平八の名が吾妻鏡にあるという資料が芭蕉・清風資料館にあると云う話などを聞いた。「永澤平八旅館」は明治時代には二階建てだったが大正時代から昭和初期に三階建てにしたもので、それ以前はどの宿屋もわら葺きだったそうである。

 翌朝、銀山温泉の奥にある銀鉱跡が、白銀公園として整備されているというので見に行った。温泉街の先に白銀の滝という落差22メートルの水量の多い滝が白い水しぶきをあげており、その上に架かる「せことい橋」を渡ると籟音の滝や洗心峡という川底の岩が美しい流れがあり、斉藤茂吉の歌碑が建っている。

 更に進むと長者ヶ池という周辺の緑が綺麗な庭園風の場所があり、そこから国指定史跡になっている銀鉱洞に入る。銀鉱洞は徳川時代初期に銀を採掘した坑道跡で、芭蕉が旅した元禄2年(1689年)に銀を掘り尽くして全山廃山になった。そのため一時寂れたが約50年後から温泉地として栄えるようになったそうである。銀の採掘跡は黒く煤けているが、採掘は火を燃して周囲との温度差によって銀を剥離させて取り出した名残だと解説板に書いてある(写真は白銀の滝と籟音の滝)

 銀鉱洞を抜けて更に山を登ると、この銀山を発見した儀賀市郎左衛門の像がある。いかにも山師らしい風貌をしている。そこから山を降り川の対岸を廻って「せことい橋」までの一周コースをゆっくり歩くと約1時間の行程である。銀山温泉まで来ても、その奥まではあまり足を伸ばさない客が多いようだが、地元でもう少し案内標識や道を整備して上手くPRをすれば立派な観光コースになると思った。(写真は洗心峡)   

 (H14-10-16)



注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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