イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 全昌寺 ]

H22-2-28作成  

全昌寺

 芭蕉は小松に2泊した後大聖寺に向かった。ここの全昌寺という禅寺に泊るのだが、この寺は山中の泉屋の菩提寺であるのでその紹介によるものだろう。前夜には曾良が泊まっている。おくのほそ道には 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶(なお)加賀の地也。曽良も前の夜、此寺に泊りて、 終宵(よもすがら) 秋風きくや うらの山 と残す。一夜の隔(へだて)、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。」と曽良との別離を偲んでいる。鐘板とは食事の合図に叩く板である。

 更に 「きょうは越前の国へと心早卒(そうそう)にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来る。」 と心もそわそわと寺の堂の下におりると若い僧たちが紙や硯を持って追い掛けて来たので、 「折節庭中の柳散れば、  庭掃て 出ばや寺に 散柳(ちるやなぎ) 」 の句を残し、北枝と共に汐越の松へと向かった。
 境内に芭蕉と曽良の句碑がある。芭蕉の碑は正面に「はせを塚」とあり、裏面に「庭掃きて----」の句が刻まれている。山中温泉和泉屋の桃妖が伝えた硯,墨などを埋めた塚の上に明治になって碑を建てたものだそうである。


吉崎御坊

 おくのほそ道では山中の後、大聖寺町の全昌寺を経て汐越の松に行っている。 「越前の境、吉崎の入り江を船に棹さして、汐越の松を尋ぬ。」 と述べ、その後に 「終宵(よもすがら) 嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」 との西行の歌を記している。更に 「この一首にて数景尽たり、もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。」 と断定している。しかしこの歌は西行の歌集には載っておらず蓮如上人御文集に載っているので、吉崎御坊を開いた蓮如の作ではないかといわれている。
 吉崎は大聖寺町から日本海に注ぐ大聖寺川の近くの北潟湖に囲まれた台地にあり、汐越の松はその対岸にある。汐越の松は現在芦原ゴルフクラブのコース内にあり、現在は碑と松の枯れ木が横たわっているだけだというので行くのは割愛した。芭蕉は 「吉崎の入り江を船に棹さして」 と記しているが、この地にある蓮如上人が開いた吉崎御坊には立ち寄った形跡は無い。

 吉崎は蓮如上人が迫害を受けた京都を逃れ、北陸布教の根拠地として北潟湖に突き出した吉崎山に壮大な坊舎を開き吉崎御坊と称された地である。ここからの布教が農民の支持を受け、大きな勢力になった門徒たちの集団が一向宗一揆から加賀に百年近く続いた「百姓のもちたる国」を形成する原動力になったのだが、蓮如自体は一揆に反対して4年後に吉崎を退いた。その後加賀国守護との戦いで吉崎御坊は消失し、現在は堂宇は無く、「史跡吉崎御坊跡」になっている。

  御坊跡の山麓には江戸時代中期に東西の本願寺がそれぞれ別院を建て、浄土真宗の聖地になっている。広い駐車場から東西両別院の間にある細い参道を登ると「史跡吉崎御坊跡」の大きな碑がある。丘上の台地は広く、高村光雲作の大きな蓮如上人像が強風のなか毅然として立っている。近くに蓮如腰掛の石があり、反対側に加賀千代女の「すみれ草」の句碑がある。あとは松と芝生の園地になっているが、日本海側には鹿島の森という樹木に覆われた島があり、蓮如上人も良く眺めていたとの解説板がある。訪れる人も無い強風の中、しばし昔を偲んで佇んだ。
  (H17--7訪)


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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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