イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 西村屋・木之元 ]

H22-3-14作成 

敦賀から美濃へ

 芭蕉は、陰暦8月14日に敦賀に着いて、先行した曽良が頼んでおいた出雲屋に投宿し気比神社に参拝した。翌15日は雨で宿に留まり、16日に晴れたので天野五郎右衛門(俳号玄流)の船で色の浜に向かった。その日は色の浜には泊まらずに敦賀に戻ったと思われる。そして翌17日に等栽と別れ大垣から迎えに来た路通と共に敦賀を発って美濃の国に向かったと推測される。
 路通は当初おくのほそ道の旅に同行することになっていたのだが、事情があって曽良が同行することになったのである。事情とはいろいろな説があるが、まず路通がずぼらで芭蕉の世話など出来るはずがないと門人一同が反対したという説。次は当時日光東照宮の修営を命ぜられていた仙台伊達藩の内情を調査するために、幕府巡見使の随員などをしていた曽良を同行するよう要請されたといういわゆる隠密説である。

 また昨、平成20年6月に、芭蕉がおくのほそ道に出発する2ヶ月ほど前に書いた新しい手紙が発見され、それには旅に同行する予定の路通が突然江戸を去って上方に向かったので 「泪落としがちにて---」 と記しているとの記事が11月の朝日新聞に掲載されていた。いずれにせよ、曾良が同行することになったため、旧暦3月27日に千住を出立してから8月4日に山中温泉で別れるまでの125日間に亘る旅の行程、天候、宿屋や出会った人々の名前などが克明に記した日記が残されたことは、後世、おくのほそ道を辿る者にとっては大変有難い事である。

 山中を出てからの芭蕉の行程は、まず吉崎御坊や永平寺に参拝したのか、敦賀までどこを通ったのか、敦賀を何時出立したのかなど不明な点が多い。敦賀から大垣までも様々なルートがあるのだが、おくのほそ道には 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、---」 とあるだけで、路通と同行した事と馬に乗った事だけしか記されていないので、日時、行程は推測する部分が多いのである。


西村屋孫兵衛茶屋

 敦賀から次の宿泊地は近江の木之本である。道順は2通りあり、一つは現在の北陸自動車道が走っている柳ヶ瀬から北国街道に合流し余呉を経由する道であり、もう一つは現在の国道8号線のある塩津街道という道である。塩津街道を行くと、滋賀県との県境に新道野越えという峠があリ、そこに1軒の萱葺の大きな茶屋がある。ここは西村屋孫兵衛茶屋であり、入口近くに福滋県境孫兵衛茶屋の標柱と、「芭蕉翁と西村家という西村家の由来や芭蕉との関わりを刻んだ石柱が置かれている。
 西村家にはおくのほそ道の原本として知られている能筆家の柏木素龍が清書をし、題簽(だいせん=表題)を芭蕉が「おくのほそ道」と自筆した素龍清書本があるので、それを見せて貰うため立寄ったのである。

 この素龍清書本は、芭蕉が兄の半左衛門に預けていたが、臨終に際し、かねてからこれを欲しがっていた向井去来に譲る約束をし、去来は代わりに書写したものを半左衛門のもとに送った(いわゆる去来本、現存不明)。素龍清書本の方は去来の死後転々とした後、敦賀の俳人白崎琴路の許に移り、現在は琴路の親戚である西村家に伝わっており、国の重要文化財に指定されている。茶屋に展示しているのはその複製本で、元本は自宅の土蔵に保管してあるそうである。

 茶屋の主人の説明によると、素龍は2回清書しているそうで最初のは文字の角々がはっきりした楷書に近いものだったが、芭蕉から俳諧の書には相応しくない字体だとクレームがつき、流れるような行書体に変更したという。最初の書の初めの部分の写しも展示してあったが、それの方がよほど読み易く思えた。その清書したものは、兵庫県伊丹市にある俳諧コレクションで知られた柿衞文庫(かきもりぶんこ) が所蔵しているが、それには題簽が付けられておらず、また一部亡失している部分があるそうである。

 素龍清書本が完成したのは元禄7年4月で、元禄2年9月のおくのほそ道の旅から4年半が経過している。芭蕉が亡くなったのは同年10月である。そして8年後の元禄15年に、当時去来が所持していた素龍清書本を摸して、井筒屋が版元なって木版印刷として出版された。

 ところで私が原本を見たかったのは、市販の本には「市振」とか「敦賀」とかの区切りの表題がついているが、本によってそれがまちまちなので、原本はどうなっているかと思ったからである。主人に説明すると、「原本には区切りは全然無く、ずらっと書いてあるだけですよ」と複製本を展示場から出して見せてくれた。

 撮影する許可を貰って表紙と最初の頁を写した。その時の説明で表題を題簽(だいせん)ということや、それを芭蕉が書いたと云う事ははじめて判った。これは平成17年に敦賀市、国民文化祭俳句大会開催記念として写真複製したもので表紙の文字はだいぶ薄くなっているが、現在の原本はもっと薄れているとの話だった。またその時の複製本がまだ数冊残っていると言われた。値段はいくらかと聞くと3千円だという。折角おくのほそ道を巡っている事でもあり、記念にと買うことにした。
 書庫から出して来たのは桐の箱に入った立派なもので、床の間にも飾っておいても見栄えがすると思えるほどである。家に帰ってから中身を良く見ると句読点は無く、俳句、和歌の部分は行を変えて一段下げて書いている。しかし大きな区切りは行を変えており、それが市販本の区切りの表題を入れる場所なのだと思えた。最後に素龍の跋も入っている縦167ミリ、横144ミリ、108ページの小冊子である。

木之本

 孫兵衛茶屋から更に国道8号線を木之本に向かって走り、塩津の集落を過ぎると琵琶湖北岸に達する。左手に秀吉と柴田勝家との戦いで有名な賎ヶ岳が見えると木之本町で、孫兵衛茶屋から車で30分弱の距離である。
 木之本は旧北国街道の大きな宿場町で、本陣、問屋、伝馬所が置かれたところである。以前から木之本地蔵院の門前町として賑わっていたが、江戸時代は北国街道と関ヶ原に続く北国脇往還との分岐点として繁栄していた。 (写真は北国街道の標識、地蔵院本堂)

 そのため今でも「うだつ」や紅殻格子のある家々が続く街並みになっている。また室町時代から牛馬市が開かれたことでも知られており、山内一豊も妻の貯めた金子で、ここの馬宿平四郎から名馬を買ったと伝えられている。
 敦賀の次の宿泊地は木之本宿が普通で曽良もここに泊まったのだが、芭蕉についての痕跡は何も無かった。
(写真は旧本陣跡、元庄屋跡、馬宿平四郎家跡)


 木之本を過ぎると左手に伊吹山を見ながら中山道に入り、関ヶ原を抜けた後、垂井から美濃路に分かれて終着点の大垣に到る行程になる。しかし芭蕉は 「駒にたすけられて大垣の庄に入ば」 としか記して居らず、途中何泊したのか、どこを通ったのかも不明である。

 芭蕉はこの辺りの道は通い慣れており、大垣へも貞享元年(1684) 野ざらし紀行の時、貞享5年(1688) 笈の小文の旅の帰路から更科紀行に引き続き出掛けた時に訪れている。そして今回は元禄2年(1689) おくのほそ道むすびの地として3回目の訪問である。ともあれ、大垣には陰暦8月20日か21日には到着した様子である。

 (H20‐12‐10訪)


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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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