南アルプス白根三山縦走 イバイチの
旅のつれづれ

白根三山の思い出

 昭和30年代前半(1955〜1960)というと平成24年(2012)から55年ぐらい昔のことである。平成24年に79才になる小生の青春時代だった。その頃、山登りの楽しさに取りつかれて、少ない休暇をやり繰りしながら奥秩父、八ヶ岳、北アルプス、南アルプスなどに出掛けていた。

 その頃オリンパスエースという35ミリカメラを買って写真を写し始めたばかりだった。現在のようにデジカメで気軽にぱちぱち撮れる時代ではなく、露出、絞りを決めて写さねばならず、また白黒写真しか無く、フィルムを現像して貰った後、大きく引き伸ばすには金が掛かるので、名刺版程度に焼き付け、良いものでも手札版に引き延ばす程度だった。

 年末の書類の整理をしなが、昔のアルバムを見たり、手記を読んだりしていると、思いだせるうちにちゃんとまとめておきたいという気持ちになった。写真をアルバムから剥がしてスキャナーで引き伸ばしてみると、何しろ50年以上前のものでゴミや汚れが目立ちどうしようかと思ったが、50年前と現在と比べて貰うのも一興と思いアップした。

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最初は南アルプス白根三山の記録である。

 平成24年(2012)から53年前の昭和34年(1959)4月28日から5月3日にかけて後輩のS君と残雪の北岳から農鳥岳への白峰三山縦走をした。前年9月に仙丈,甲斐駒,鳳凰を縦走した時には北岳に登ろうと云う気は無かったが、同行のS君の張り切りに動かされた恰好で登ることになった。
  白峰三山とは南アルプスの中央部にあり、富士山に次ぐ日本第2の高峰である北岳(3192m)と、それに続く間ノ岳(あいのたけ)(3189m)、農鳥岳(3026m)の3,000mを超える連峰を総称して呼んでいる。

 まず前夜上野から新宿に出て中央本線に乗り、翌日早朝、日野春駅頭から大藪の湯を通り、赤薙沢に向かった。大藪の湯は北杜市武川町の大武川の近くにある鉱泉で、現在も営業している。大藪の湯から大武川を遡り、赤薙の滝を経て急峻な登山道を登ると甲斐駒ケ岳からアサヨ峰を経由して鳳凰三山に伸びる早川尾根に着く。その地点から少し先に広河原峠があり、そこから急な坂道を下ると広河原小屋に行けるのである。(写真は大武川、右上部の雪山が甲斐駒)

 赤薙沢の登山道は前年秋の台風で荒されていて橋は落ち径は崩れて、予定時間はまたたく間に過ぎ去ってしまった。やっとの思いで尾根に取り付き広河原峠に着いたときは既に午後6時になってしまったので、広河原小屋まで降りるのは諦めて尾根道近くにある早川尾根小屋に泊まることにした。しかし尾根筋は残雪が多く、またシーズン前なので山小屋に行く雪上の踏跡も途絶えがちであり、雪明かりを頼りにやっと小屋に着いたときは日もとっぷり暮れた7時過ぎだった。(写真は残雪が残る赤薙沢と早川尾根小屋前)

 明くれば外は雨、シェラフの中で半日寝て過ごす。昼近くから雨が上がり、勇躍出発した。急坂を下りて野呂川の前面の開けた所に位置する広河原小屋に着いたのは午後2時すぎである。予定ではその先の白根御池小屋まで行く積りだったが、満員だとの話しでその夜は広河原小屋泊になり、当初の日程は完全に一日狂ってしまった。

 広河原は日本第2の高山である北岳の登山口として知られ、南アルプス登山の中心基地になっている。今でこそ甲府から芦安、夜叉神峠入口経由のバスや伊那から高遠経由北沢峠越えのバス、身延から奈良田経由バスが広河原まで乗り入れているが、当時はどこから入るにも徒歩で山一つ越えねば行けない場所だった。

 翌朝は上天気になり勇躍朝4時に広河原小屋を出る。森林帯を登ること2時間。眼前が開けたところに白根御池小屋がある。池はまだ雪の下である。小屋の裏手からは間近に雪を被った北岳山頂とその真下に青黒い岩壁のバットレスが草すべりの急斜面の先にまぶしく光り輝いている。この景観の素晴らしさは今までのアルバイトを償って余りあるほどだ。(写真は白根御池小屋と北岳バットレス)

 白根御池から小太郎尾根に取り付くまでの所謂草すべりは全行程でも最大のアルバイトだ。夏には見事なお花畑になると云うが、今は雪に覆われた白一色の急斜面である。重いリュックを背負って5歩登っては休み、3歩登っては休む。北岳バットレスだけが青い空と白い雪の中で青黒く輝いている。


  4時間くらいかかり小太郎尾根に辿り着くと前面が開けて甲斐駒が端正に聳えているのが望める。そして仙丈もどっしりした山容を見せている。両山とも前年に登った山である。苦しい登高の後に初めて見る高山の偉容はいつもながら胸を打つ。ひと休みして北岳に向かう。白雪に覆われた山頂に続く道の傾斜は鋭く強い。スリップしたら墜落しそうである。今回持参しなかったアイゼン,ピッケルの必要性を痛感しながら四つん這いになって必死に登った。(写真は小太郎尾根からの甲斐駒、地蔵岳のアラベスクをバックに急な斜面を登るS君、右上に先行のパーティを望み左側には遠く富士山が見える)

 やっと登った北岳山頂(3,192m)は素晴らしく良い天気だった。日本第2の高峰に登ったのだとの感慨が胸に湧く。時は11時、北ア,中ア,富士山,南アの甲斐駒,仙丈,塩見,悪沢,赤石岳と三千米級の山々が白雪を頂いて眺められる。他のパーティは居らず壮大な風景を二人だけで満喫する。(写真は山頂からの甲斐駒ケ岳、仙丈岳〈画面中央の岩上に雷鳥が居る〉、塩見,悪沢,赤石岳方面)

 雷鳥が岩と雪の間に姿を現わした。冬毛から夏毛に抜け代リ始める時期でまだら模様である。暫く休憩した後に北岳を後にして間の岳に向かった。相変わらず一歩一歩雪を踏み締めながら歩く。振り返ると甲斐駒と並んで北岳の白く包まれた鋭い峰が見送っている。(写真は雷鳥、間の岳への縦走路、間の岳山頂からの北岳〈手前〉・甲斐駒〈左奥〉、同じく山頂からの千丈岳)

 間の岳山頂(3,189m)から尾根は2つに分かれ1つは塩見,荒川,悪沢,赤石の連山に続く縦走路である。もう1つは農鳥岳から広河内岳に続く支稜である。当初の計画では塩見岳に登り三伏峠から降る予定だったが、稜線上の雪が深くアイゼン,ピッケル無しでは難しかろうと判断して農鳥岳から大門沢を降りることにした。(写真は右手前塩見岳,左奥荒川,悪沢,赤石の連山、塩見岳全景)

  農鳥の石室に向かって間の岳から降りる。夕映えの雪原にシルエットが長く伸びる。這松の上に雷鳥が顔を出す。石室がなかなか見つからず夕暮れになってやっと辿り着いた。管理人は居らず、外で夕食の準備を始めたが煙が目に滲みて痛い。サングラスを持参しなかったため、あまりの好天で雪の反射が強く目を痛めたらしい。今夜はもう一組のパーティと一緒に泊まる。(写真は間の岳、夕陽を浴びて歩く、農鳥石室前)

 翌朝も天気が良い。しかし痛んだ目は眩しくて開けていられない。これが雪盲なのかと思い、スキーの時のゴーグルを持参するのだったと思いながら時間をかけて農鳥岳(3,026m)を越し、大門沢出合いから這松の急坂を降った。大門沢の雪渓起点に着く頃、目の痛みも少し和らぎ、だいぶ明けていられるようになった。帰路は西山温泉に立ち寄って疲れを癒し、旅は終わった。

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 昭和34年と云うと26才の事である。この年にはもう一度7月に裏銀座から槍・穂高まで縦走をした。50年以上前だが、この白根三山縦走と共にところどころは鮮明に覚えている。それだけ印象に残る出来事だったのだ。この頃の休日は日曜と祝祭日しかなく、何日かは休暇を取らないと遠出は出来ない。山歩きをする若者も少なく、日に何組かとすれ違うだけで、挨拶もまだお互い自然に出来た頃である。

 それにしても写っている自分の若かったこと。50年の歳月が過ぎ去ったのだと改めて思い知らされる。

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思い出の山旅


1白根三山縦走
 

2裏銀座,槍穂高  縦走

3尾瀬から
   会津駒へ


4後立山縦走

5仙丈,甲斐駒,  鳳凰

6奥秩父主峰縦走

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