平成24年(2012年)3月末で21年間続いたBSプレミアム「週刊ブックレビュー」が放送終了となった。長年この番組を見て今まで読んだことの無かったジャンルの本を数多く読むことが出来た小生にとってまことに残念であり、新しい書評番組が早く出来ないか渇望している。
読書についての感想は別の機会に譲るが、この「週刊ブックレビュー」の最後の通常番組で、「妻沼聖天山 歓喜院聖天堂 彫刻と彩色の美」という本の紹介があった。内容は「妻沼の聖天さま」の名で地元埼玉の人に親しまれてきた名刹・歓喜院聖天堂が2003年から8年間にわたって大規模な修復工事が行われ、建立された250年前の鮮やかさを取り戻した。その細密画を思わせる写実的な多くの彫刻やその色使いなどの技術の高さは、日光東照宮をもしのぐとも言われており、その美しさを余すところなく伝える写真集ということで、幾つかの素晴らしい画像の美しさなどが心に残り、そのうち尋ねてみたいと思っていた。
それから2ヶ月経った5月中旬に国の文化審議会がこの妻沼聖天山の本殿である歓喜院聖天堂が国宝として指定されたとの新聞記事があり、思い立って6月下旬に埼玉県熊谷にある歓喜院聖天堂に行くことにした。
熊谷市のホームページによると、この歓喜院聖天堂は、享保20年(1735)から宝暦10年(1760)にかけて、妻沼の工匠林兵庫正清及びその子正信らによって建立されたもので、これまで知られていた彫刻技術の高さに加え、修理の過程で明らかになった漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されたのだそうである。(写真は奥殿外観の華麗なる色彩)
日光東照宮の創建から百年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎ込まれた聖天堂は、「江戸時代建築の分水嶺」とも評価され、江戸後期装飾建築の代表例だということである。その保存修理工事には前に述べたように平成15年(2003)から平成23年(2011)までの8年間の歳月と総工費13億5千万円の膨大な費用が掛ったのである。
当日は水戸南ICを9時頃出発した。梅雨期で時折激しい雨が降りかかる天候の中、北関東道路の大田桐生ICを10時40分ごろ降りて国道407号線を下って行き、利根川を超えると熊谷市である。川を渡って少し先の登戸交差点を左折すると妻沼聖天山がある。11時過ぎに到着した。幸い雨は上がって曇り空になっていた。
駐車場からは境内中ほどの仁王門の前に出られるようになっているが、説明は正門である貴惣門から入る順序にしたい。まず石柱の入口から参道を行くと国指定重要文化財の貴惣門がある。この門の特徴は屋根が3つの破風からなっていることで、写真が無かったので、熊谷市ホームページからコピーした(3番目の写真で、横から見るとと3つの破風が良く分かる)。この門にも精緻に施された彫刻が多くあるが本殿同様彩色する計画があるようである。(4番目の写真は貴惣門中央にある双竜の彫刻)
貴惣門を潜り参道を行くと右手に斎藤実盛公の像がある。寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされており、平成8年に建立された像である。
斎藤別当実盛は源義朝の弟義賢(よしかた)の幕下にあった時に義朝の子、悪源太義平により義賢が討たれてしまった。その時、実盛は密かに義賢の遺児駒王丸を信濃の中原兼遠の許に送り届けた。その駒王丸が後年の旭将軍木曽義仲である。
実盛はその後義朝の武将になり奮戦したが、義朝の死後平氏に仕えた。その後の源平の争いで平維盛(これもり)が木曽義仲追討のため北陸に出陣した時、篠原の戦で敗走する平家軍の殿(しんがり)を務めて奮戦し討死した。その時、実盛はここを最後の地と覚悟し老いを隠すため白髪を黒く染めていたので首実検の時は分らなかったが、股肱の臣である樋口次郎からその話を聞いた義仲が近くの池で首を洗わせたところ白髪に変わったため、命の恩人を討ち取ってしまったことを知って人目もはばからず涙にむせんだということが、平家物語に大きく載っている。また謡曲「実盛」には亡霊になった実盛が、篠原の戦いについて語る場面がある。
また俳人松尾芭蕉は「おくのほそ道」の道中で、石川県小松にある多太神社に奉納された斎藤実盛がかぶっていた冑を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と詠み、実盛と木曽義仲について記している。小生のホームページ「イバイチの旅のつれづれ」http://www.ibaichi.com/ の中の「イバイチの奥の細道漫遊紀行」を開くと「45小松」の段にその辺りの事や「実盛首洗池」について書いてあるので、そちらも読んでほしい。
この妻沼聖天山にある実盛像は、右手に筆を左手に鏡を持って白髪を黒く染めようとしているところである。左側に置かれている冑は後日、木曽義仲が多太神社に納め、実盛の冥福を祈った冑である。
芭蕉は「おくのほそ道」に「此(この)所、太田の神社に詣(まうず)。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給(賜)はらせ給(たまふ)とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から(唐)草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形打(うっ)たり。真(実)盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、此社にこめられ侍(はべる)よし、」と詳細に記している。
(以下次号)
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