「水戸学の道」散策 イバイチの
旅のつれづれ

 水戸市では「水戸学の道」としてJR水戸駅北口の丘の上にある旧水戸城近辺を整備して、復元した大手門から水戸第二中学、茨城大学付属小学校・幼稚園、水戸第三高校から水戸第一高校に続く「水戸城跡通り」を、白壁と広い石畳の遊歩道のある散策できる道路に直した。
 更に水戸第一高校に以前からある水戸藩の薬医門以外に旧幕時代にあった門を二つ復元した。そしてこの通りに弘道館を取り囲む道路を加えて、全体を「水戸学の道」という名前を付けて水戸駅から周回できる散策路とした。
 また本年中には旧水戸城の中心部だった二の丸の南西端に在った「隅櫓」を復元する工事も進んでおり、これが完成すれば、水戸駅北口付近は一大観光スポットになるかもしれない。 

 それはともかく、出発点は水戸駅北口である。ペストリアンデッキの右側に水戸黄門、助さん、格さんの像がある。今年(令和2年)の「水戸の梅まつり」が2月15日〜3月29日に偕楽園と弘道館で行われるので、像の両側には紅梅と白梅の植木が置かれている。 また水戸黄門像の左手に昨年秋に造られた大きなひのき造りの昔風の「お休み処」がある。

 水戸駅北口から右手に3分ほど歩くとある国道51号線の近くに「義公生誕の地(水戸黄門神社)」がある。水戸光圀はこの地で生まれ、4才まで育てられた。



 「水戸学の地」散策路には要所に案内図が設置っされており、そのマップの通り歩けば一周できるようになっている。「義公生誕の地」から坂道を上がって行くと新しく復元された「柵町坂下門」がある。この門は藩主御殿があった二の丸の入口にあたり、下馬札が建てられていたそうである。

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 坂を上りきるとT字路になり、左手の水戸第一高校内に薬医門がある。
 この門は旧水戸城の現存する唯一つの建造物で、薬医門とは扉を支える本柱と控柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で造られた門であり、正面から見ると軒が深くゆったりとして威厳のある城門になる。建立の時期は桃山時代で、城門の風格から本丸の表門らしいということである。写真は左側が正面から撮ったものであり、右側が裏面からである。
  

 薬医門から先ほどのT字路に戻る。向かって左側は旧二の丸であり、水戸第三高校から付属小・幼稚園に続く白壁と石畳の道が連なっている。右側には那珂川方面からの杉山坂という坂道になっており、上りきったところに復元された杉山門があり道路を挟んだ旧水戸城二の丸の門に相対している。

 杉山門の右前方に天然記念物に指定されている2本の大きな椎の木がある。この大椎は樹齢400年あり、戦国時代からこの地に自生していたと言われ、一株は目通り直径3.3m、樹高18..6m、もう一株は目通り直径4.3m、樹高20.0mの巨木であり、水戸城旧城郭内に存在することは歴史的にも意義があると説明板に記されている。

 さらに進むと、安積澹泊(あさかたんぱく=格さん)の像と水戸城址二の丸展示館がある。安積澹泊は彰考館総裁を務め大日本史の編纂にあたった人物である。また水戸黄門漫遊記の格さんのモデルでもある。
 水戸城址二の丸展示館は旧水戸城の模型や周辺で出土した瓦、などの資料が展示されていたが、更に日本遺産として認定された水戸の教育遺産などの資料が展示されている。

 水戸城址二の丸展示館の先には「大日本史編纂の地」という碑と「彰考館跡」という碑が建っており、その北側は水戸市立第二中学校なっており、この通りに合わせた重厚な門構えの校門がある。
 水戸藩の大日本史編纂は最初、江戸小石川の水戸藩上屋敷に徳川光圀が明暦三年(1657)に編集所を設けて彰考館と名付けた。その後元禄十一年(1697)に水戸城内のこの場所に移したもので、徳川光圀が始められてから二百五十年後の明治三十九年(1906)にやっと完成したのである。

 白壁と石畳の道の右側には水戸第三高校、茨城大学付属小学校・幼稚園が続いている。杉山門と道を挟んだ場所に第三高校の通用門がある。この門も復元された門である。水戸第一高校の方を眺めると左側に杉山門、右側に水戸第三高校の通用門が見える。


 更に進むと左手に曲がった場所に大手門が見えてくる。曲がり角左手に「茨城師範学校跡地」の解説板がある。更に左折すると「茨城大学教育学部附属小学校・幼稚園」の復元された校門がある。この場所には戦前、旧茨城師範学校とその付属小学校・幼稚園があったが、戦後の学制改革で茨城師範学校は茨城大学教育学部になって場所も移動し、付属小学校・幼稚園だけが残っている。

 その先のかぎの手に曲がったところに大手門がある。大手門の内側に昭和天皇が昭和二十一年十一月に行幸し、戦災の状況をご視察された時の御製の歌碑が移築されている。

 水戸徳川家は藩主は江戸定府ということで、通常は江戸に居て将軍を補佐していた。そのためもあり、初代藩主徳川頼房は従来の本丸を兵器置場とし、旧二の丸を本丸に改めて使用していた。また徳川斉昭によって三の丸は弘道館の敷地になった。

 その後水戸城の建物は幕末の尊攘運動のなかで殆ど焼失し、薬医門と弘道館正門、弘道館正庁、至善堂などの部屋がある弘道館本館のみが残っていた。その後、今年(令和二年)に大手門が復元され、その後二の丸隅櫓が復元途中である。

 大手門は旧三の丸である弘道館正面と大手橋と相対した二の丸側の以前設置されていた場所に復元された。着工は平成二十九年(2017)六月で令和二年(2020)二月に完成した。高さ13?、、幅17?、総工費6億2千万円とのことである。(写真は正面からの2景、内側から、門の内部)、
 「水戸学の道」は、この後大手門から弘道館に出て、弘道館の外周を回り、三の丸小学校近くから銀杏坂を通り、水戸駅に回遊できる散策路になっており、最短ルートで約1時間2kmのコースから最長ルート約2時間3.3kmコースまで、3コースをお勧めルートとして推奨している。

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 (以下次号)

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