「天下を買った女」を読んで
 

2022年10月7日 (金)
  「天下を買った女」

             伊藤 潤  

   角川書店 
            2022年4月発行



 この本は応仁の乱(1467)で京都が焼け野原になった頃に、時の8代将軍だった足利義政の正室、日野富子の物語である。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから(1192)足利尊氏が室町幕府を開き(1338)、足利義満が金閣を造営してから(1392)75年後の話である。

 康正元年(1455)9月に日野富子は16才で8代将軍足利義政(当時20才)の許に輿入れした。しかし将軍として全国の大名や武士を統率する立場の義政は政務に身が入らず、問題が起きてても自主的に解決しようとはせず、先送りばかりしていた。そうした先送り体質は政務全般に及び、境目争いといった所領に関連する訴訟にも決定を下さないので、次第に幕府の存在意義は低下し、「自力救済」すなわち実力主義の風潮が世に蔓延しつつあった。

、義政の父義教は大名の相続争いに口を出し、従わなければ厳罰に処するなどの恐怖政治を行い暗殺されるという事件が起きた。それを知る義政の育成担当の人々は義政に武士としての心構えを教えず公卿としての教養を身につけさせた。そんな人物が武士の統率者や為政者に向いていないのは当然で、義政には武家の棟梁としての使命感など無きに等しかった。

 寛正元年春ごろから諸国では、天候不順による不作が続き、翌年には旱魃とイナゴの大量発生による飢饉や疫病が発生し、畿内と周辺諸国の人口は三分の一にまで減ったうえ賀茂川は死者で堰き止められるほどの寛正の大飢饉が始まった。
 
 こうした世の乱れに頓着せず義政は御所の大改築にいそしみ、広大で美しい泉水の築造に熱を上げていた。築庭に懸ける義政の熱意を知った諸大名は、国元から名石や銘木を持ち寄り、義政の歓心を買おうとした。こうした無駄な費用に富子は遠回しに反対したが、義政は「わかった、わかった」というばかりで取り合おうとしなかった。

 寛正5年4月寛政の大飢饉が終ったことを内外に示すために勧進猿楽を催すことになった。その打上げの祝宴の時、義政は「隠居することにした」と発言をした。「自分は8才で将軍になり、今年で29才になった。もはや将軍の重責は十分に果たした。しかも御台所が生んだのはすべて女子だった。これはわしにはもう男子が出来ないという天の示唆に違いない。」そして次の将軍には仏門に入った3歳年下の弟を還俗させて足利義視と名乗らせた。

 富子はそのような話は聞いておらず、怒りがこみ上げたが、自分が懐妊して男子を産めばよいのだと思い直した。そしてその義視を将軍にする企てを立てたのは政治に関心のない義政に愛想をつかした細川勝元とその舅の山名宗全が少しはやる気のありそうな義視を将軍職に就け、思うままに操ろうとしたのだと判った。 寛正6年富子は男児を出産した。しかし義政が義視を次期将軍と決めてしまったので、富子は自分の子を義視の次の将軍にすることにしか出来なかった。

 その一方で、富子は戦乱の世の中で、武力を持たない女性が力をつっるにはどうすれば良いかを考え、明国帰りの理財(経済)に詳しい僧侶からから話を聞き、飢饉の際の民の窮乏を救おうと考えた。
 そして蓄財の方法に詳しい10歳の俊英、伊勢新九郎(後の北条早雲)を紹介され、資金運用により戦費に追われる大名たちに資金を貸し付け、担保として武器弾薬を徴収するが担保品はそのまま使わさせる。返済不履行になった場合は担保品の没収、官位剥奪、領地没収などの権限行使を行い、徐々に武家の戦闘力を衰えさせる事を進めて戦乱を収めようとした。
 
 この時期は、畠山家の跡目争いから発して、それに介入する細川勝元と山名宗全が対立し、東軍と西軍に分かれて京都の市内で争いを起こし、秩序を正すべき将軍家である義政の優柔不断さが混乱に輪をかけ、10年に亘る応仁の乱が発生した時である。また飢饉の頻発により農民の土一揆が頻発し、徳政を求めて暴徒と化し放火、打ち壊しなどによる戦乱により、京都の町は灰燼に帰し、その復興には織田信長、豊臣秀吉の天下統一を待たねばならなかった。

著者の伊藤潤は以前「修羅の都」を読んで という源頼朝の正妻北条政子の生涯を描いた本で、承久の乱の大演説を感動深く読み、現在放映されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では政子はどのような演説をするのか興味があるが、それと共に政子と共に天下の悪女と云われた日野富子の実像はどうだったのか興味があって読んだが、足利義政の駄目将軍振りと,応仁の乱という大きな戦乱を前にしては少し影が薄くなったきらいがあった。

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(この項終わり)

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