　　「新・地図のない旅Ⅱ」

　　　　　　　　　　五木　寛之　　

　　　平凡社　
　　　　　　　　　　　２０２３年８月発行

　前回に引き続き、五木寛之の「新・地図のない旅②」　の２回目で、図書館から予約して読んだ本である。前回は年寄りの繰り言的な
文章が多かったが、今回はあまり気になら無かった。次回は１１月に
「新・地図のない旅③」が発売されて終わる予定である。

今回は以前だした本を重版するという話があったということが出ていた。平成１０年の春に出版された「大河の一滴」という本で、送られてきた本の奥付きを見ると、平成十年四月十五日第一刷発行、令和二年三月三十日第四十四刷発行となっている。

「大河の一滴」という題名は中國の言葉から取ったものである。道教をはじめ中国文化の国際的な学者でいらした故・福永光司先生から教わった「大河の一滴」，「大海の一粟（いちぞく｝」ということで、一粒の粟のような微小なものの例えであるらしい。

　その本におさめた文章の中で、私が（作者が）勝手な紹介をしたのは古代中国の伝説だった。戦国時代の楚の国に屈原という人がいた。大した才人で、王の側近として活躍するが、ライバルに讒訴されて失脚する。彼の手腕と、あまりにも一徹な正義感が周囲の反発を買ったらしい。
　その内容は下野して放浪中、よろめきながら大河のほとりにたどり着いた屈原が天を仰いで濁世を嘆き、憤っていると、一人の漁夫が船を寄せてきて身分の高いお方のようですが、どうなさいました。と聞く。
　そこでのやり取りが私には忘れ難いものだった。困難な時期には何時もその話を思い出して自分を励ましたものだと作者は言う。
　それにしてもコロナの時代になぜこんな昔の本がと、重版された本を前にして,あらた感慨にふけったとも言っている。

　この「大河の一滴」という本は小生も購入して持っている。また屈原の話は横山大観が水戸の茨城県美術館で素晴らしい絵画を描いたのを見ており、屈原の話も大まかな内容は良く判っていた。
しかし、作者はその内容については書いていないので、代わりに説明しておきたい。一人の漁夫が船を寄せてきて身分の高いお方のようですが、どうなさいました。と聞かれた後の事からである。

　屈原は今世間は、挙げてみなすべて濁り切っている。濁世の極みだ。その中で、これまで自分は一人清らかに正しく生きてきた。そして人々はいまだにみな酒に酔いしれているいるような有様だが、その中で自分は一人醒めているのだ。
　だからこそ、私はこの様な目に遭って官を追われ無念の日々を送っているのだ、と。それを聞いた漁夫は頷きながら再び屈原に尋ねる。　確かにそうかもしれません。しかしあなたは、そのような濁世に一人高く己を守って生きる以外の道は、まったくお考えにならなかったのですか。
　屈原は断固として答えた。潔白なこの身に世俗の汚れたちりを受けるくらいならこの水の流れに身を投じて魚のえさになる方がましだ、
と。それが私の生き方なのだ、と。
すると漁夫はかすかに微笑み、小舟の船端を叩きつつ歌いながら水の上を去って行った。
　その魚師の歌は、次のように語り伝えられている。

　（滄浪の水澄まば）
　滄浪の水が清らかに澄んだ時には
　（持って吾が嬰を洗うべし)
　自分の冠の紐を洗えば良い
　（滄浪の水濁らば）
　もし滄浪の水が濁ったときは
　（以って吾が足を濯うべし）
　自分の足でも洗えばよい

そして漁師は二度と背後を振り返ることも無く流れを下って遠く消えて行ってしまうのである。
　作者は屈原のような人は今でも少なくない。有能で理想家肌で、そし真直ぐ正直に生きようとする。そういう人にとってこの現代の濁世は真実耐え難いものだろうと思う。

屈原は見事な人物である。しかし名もない漁師のふてぶてしいことばにも、この世に生きる者の或る真実があるように思えてならない。汚れた水であっても自分の泥だらけのの足を洗うのには充分ではないか。大河の水は、時に澄み，時に濁る。いや、濁っていることの方が
普通かもしれない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、はたしてどうなのか。なにかすこしでもできることをするしかないのではあるまいか。私はひそかに自分の汚れた足をさすりながら、そう考えたりするのである。　

　しかし、私の正直な考えを告白すれば、この世には「真実」もあれば「虚仮〈うそ）」もある。その時の他者との関係の中で、生きる意味もあればむなしさもある。それが本当だと思っている。
　だが善き人もいれば悪しき人も居る、というふうに風に善と悪とを対立させて人間を分けようとは考えない。人は置かれた状況や立場、その時の他者との関係の中で、ある時は善意を、ある時は悪意を露出させる不確かであやうい存在ではあるまいか。世間というものも、またそのように揺れ動きつつ流れて行くものなのである。

　もしそうだとすればいま、この、今の時代はどうなのか。私にはこの数年来、未曽有の濁水が押し寄せて渦を巻きつつ流れているように見える。滄浪の水は黄色く濁りに濁って魚も川底も全く見えない。屈原という人は古代の義人だが、その怒りと絶望感は平成のわたしたちの心の中にも通じるものがあるようだ。

「ばかばかしい世の中だ。しかし、だからといって、彼に全面的に共感を覚えるわけではない。とは言え濁った世なら濁って生きてやる。と覚悟を決める勇気もない。しかし世間全部がそうなら、一人で逆らっても仕方がない。だったら自分も同じように自分をごまかして適当に生きてやるか」
そんなふうに割り切れるものだろうか。実際には私たちは私たちなかなか善人にもまた悪人にも徹しきれない、また悪人にも徹しきれない頼りない存在なのである。

　屈原に語り掛けた漁師の言葉にはしぶとく生きる底辺の民衆の知恵と決断が潜んでいる様に私は思う。世の中は時に澄み時に濁る。いわば川の流れと同じようなものだ。清らかに澄んでいないことを一人嘆き、怒っているばかりでは生きていく事は出来ない。幸いにも水が澄んだら自分の大切なものを洗えばよい。たとえ濁った水といえども自分の汚れた足を洗うには十分というものだ。それともあんたは、自分の体のどの一部も、ちりひとつついていない清らかな存在だとでも考えているのかね。

それはそれとして屈原には屈原の生き方というものがあった。彼は自分の理想を守って生き。そしてのちに投身して死ぬ。それもまた一つの生き方というものだ。漁師のはなしに密かにうなずきつつも、人はかたくなな屈原の情熱を共感をもって長く語り継いだのである。屈原の物語をどう読むか。私個人の好みで言えば屈原にも共感しつつ、それでも自分は漁師の歌により大きな何かを受け取るような気がする。
濁水をただ嘆くな。滄浪の水もし濁らば己の足を洗うべし。密かにそう呟きながら今を生きている。

　この「大河の一滴」という本の、送られてきた重版の奥付きを見ると、平成十年四月十五日第一刷発行、令和二年三月三十日第四十四刷発行となっているそうで、新・地図のない旅Ⅱの発行日は令和五年八月二十三日であり、昔の五木寛之の文体が躍動していた。新・地図のない旅Ⅲがどの様な文体になるのか次回の本に、期待したい。

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（この項終わり）