イバイチの奥の細道漫遊紀行

[黒羽 1]

H21-8-20作成

大雄寺、芭蕉の館
 芭蕉は日光から那須野ヶ原の道なき道をたどり黒羽に出た。黒羽では13日間も滞在している。これは奥の細道の全旅程中最大の滞在日数であるが、此処の城代家老とその弟は桃雪、桃翠の俳号を持つ芭蕉の門人で、この兄弟から手厚くもてなされことと、この後の白河の関を越えて陸奥に入る覚悟を決めるまでの日時が必要だったことが長期滞在の理由だったのだろう。
 此処には黒羽城があり、城主の大関氏は秀吉の時代から明治初めまでずっと黒羽藩を治めていた。菩提寺である大雄寺は萱葺きの立派な本堂があり、曹洞宗の寺で座禅道場にもなっている。裏手には五輪の塔型や位牌型といわれる歴代藩主の大きな墓石が多く立ち並んでいて、盛時を偲ばせる。(写真は大雄寺山門と本堂及び位牌型の墓石)

  大雄寺の入口のすこし先から「芭蕉の道」と名付けられた坂道の遊歩道に入ると、芭蕉の句碑が点在している。まず入口には「おくのほそ道」の旅立ちの句、 「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」の句碑が満開のあじさいの中に埋もれるように置かれている。さらに進むと 「田や麦や 中にも夏の ほととぎす」 の句碑がある。これは曽良旅日記の中にある俳諧書留に記された句で、元禄二孟夏七日 芭蕉桃青とあり、4月7日桃雪邸に滞在していた時の句である。「おくのほそ道」には、「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る(おとづる)。思いがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、----」と記されているが、「館代浄坊寺何がし」は城代家老浄坊寺高勝(俳号桃雪)のことで、喜んで弟の翠桃と共に、朝夕付きっ切りでもてなしてくれたと最大級の賛辞を記している。桃翠は兄の桃雪より1才年下の鹿子畑翠桃のことで、、二人とも江戸勤番中芭蕉の弟子になっていた。
 
 芭蕉の道の途中にある桃雪邸跡には広い庭の中に建物が置かれ、「山も庭も 動き入るるや 夏座敷」 の句碑がある。曽良の俳諧書留によると、前文に 「秋鴉主人の佳景に対す」 とあるが、秋鴉は主の桃雪の別号である。
 また近くには桃雪書信連句碑という石碑があり、曽良の俳諧書留にある 「芭蕉翁、ミチのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなたすか川といふ所にとヽまり侍ると聞て申つかはしける。 『雨晴て 栗の花咲 跡見哉  桃雪』 『いづれの草に 啼おつる蝉  等躬』 『夕食喰 賎が外面に 月出て  翁』 『秋来にけりと 布たぐる也  ソラ』」 の文が刻されている。
 芭蕉は4月3日から15日まで黒羽に滞在した後、那須湯本を経て白河の関を越え、4月22日に須賀川に着いて相楽等躬宅に7日間滞在している。須賀川に到着早々「栗の花の印象などを認めた礼状を桃雪宛て送ったものと思われる。桃雪はそれに対して返礼の句を送ったのだが、それを発句にして連句を詠んだものである。


 桃雪邸跡の先には芭蕉の広場という開けた場所があり、「鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし」の句碑がある。この句は俳諧書留によると「ばせおに鶴絵がけるにサン」と詞書(ことばがき)があり、絵を書いた後の讃として書いた句ということが判る。これらの句碑を読みながらさらに小径をゆっくりとたどると、「芭蕉の館」という芭蕉の記念館に着く。

 芭蕉の館記念館の広い前庭には馬に跨った芭蕉と曾良のブロンズ像があり、その後方に「おくのほそ道」那須野の段の原文及び曾良が詠んだ 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし  曾良」の句を刻んだ石碑がある。芭蕉の館は黒羽城の三の丸跡にあたり、芭蕉に関する資料が多数保管され、陳列されていて、一見の価値がある。

 芭蕉の館からさらに上ったところに黒羽城本丸跡の黒羽城址公園がある。そこは遥か下を流れる那珂川の先に那須連山が眺められる高台に位置しており、雄大な景観が楽しめる。黒羽藩主大関氏の居城だった場所であり、春には桜が、梅雨時にはあじさいが全山を覆い、市民憩いの場所である。
(H13−10−8訪・H19−7−3再訪)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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