イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 立石寺 ]

H21-11-16作成 

天童

 尾花沢から山寺立石寺に行くには羽州街道を南下し、天童から立石寺の参詣道としての山寺街道を行く。「曾良俳諧書留」によると、この山寺参詣の途中で 「まゆはきを 俤にして 紅の花」 の句を詠んでいる。芭蕉が山寺に参詣したのは、陽暦の7月13日でこの辺りに多く栽培されている紅花の花が満開の頃だったのである。
 旧山寺街道を行くと今は紅花に代わってりんご畑が続いており、石倉地区の街道を少しそれた場所に「芭蕉おもかげの丘」がある。丘というからにはある程度の広さがあるのかと思ったが「まゆはきを」の句碑とあづまやなどがあるだけである。あづまやにある解説文によると、当時はこの辺りは紅花が満開で 「まゆはきを 俤にして 紅粉の花」 の句はこの地で詠まれたのではないかと推定され、山寺への旧道の分岐点に加藤楸邨の筆による句碑を建立したとある。昭和56年7月の句碑除幕の時に楸邨夫妻が詠んだ句碑も近くに置かれていた。


旧東村山郡役所資料館

 天童市内に旧東村山郡役所資料館があり、その庭園に芭蕉が「まゆはきを---」の句と共に作ったと伝えられる 「行末は 誰が肌ふれむ 紅の花」 の句碑がある(蕉門十哲の一人である支考の撰集{西華集」に載っている)。また翁塚碑と「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の句碑がある。これは宝暦8年(1758年)に天童の俳人池青という人がおくのほそ道70年を記念して建立したもので、その近くに由来を記した解説の碑が昭和61年に建てられている。

 資料館は明治12年建設の洋風建築の建物で、中に入ると江戸時代以後の天童藩主は織田信長の次男信雄の直系が明治まで続いた系譜がある。長男信忠は本能寺の変で死んだため、信長の直系の子孫ということになる。また明治初期東北で最初の写真館を開いた菊池新学の写真が展示してあり、東北の片田舎で文明開化の象徴である写真を先駆けて始めた人物が居ることに驚いた。他にも押し絵が盛んだったことや日本で最初の流行歌手佐藤千夜子の出身地だったことなど、その土地に行かねば分らないことを知ることが出来た。外に出ると丁度満開のそめいよしの桜が白い漆喰と茶色の瓦屋根の建物によく調和していた。

立石寺根本中堂

 立石寺について、おくのほそ道には 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。」 と記されてあり、当初は訪れる予定は無っかたが、尾花沢の鈴木清風に勧められ参詣し、結果として「閑さや----」の素晴らしい句が生まれた。

 おくのほそ道は、更に 「日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巖を重て山とし、松柏年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ 閑さや岩にしみ入蝉の声」 と名文が続く。 「閑さや----」の句は、「曾良俳諧書留」にある初案は 「山寺や 石にしみつく 蝉の聲」 だったが、その後 「さびしさや 岩にしみ込 蝉のこえ」 という再案を経て 「閑さや 岩にしみ入 蝉の聲」 に落ち着いたといわれている。

 山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院立石寺と言う。清和天皇の勅願によって貞観2年(860)慈覚大師円仁が開山したと伝えられている。なだらかな石段を登ると、慈覚大師が創建した根本中堂がある。立石寺は一山の総称でその名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂でありまた中心道場である。堂内には慈覚大師の作といわれる薬師如来が安置されている。(写真は根本中堂)

 根本中堂には、千年以上の昔から火を灯し続ける法燈がある。これは慈覚大師が立石寺開山の際、比叡山から分けて貰ったものであるが、大永元年(1521)に戦乱により一山が焼かれたことから、比叡山より改めて火を貰い受けた。その50年後の元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山が焼き払われ、その再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたという。こうして「千年不滅」の法燈は今も山寺にあって火を灯し続けているのである。(写真は根本中堂と嘉永6年建立の「閑さや--」の句碑…左下)

 ここで御朱印を貰ったがそれには「法灯不滅」とあった。普通御朱印は筆の上手い人が書くのだが、山寺ではこの根本中堂のほか後になるが、山上の奥の院で大仏殿と如法堂の二つも貰った。しかし、どれもあまり上手くない手だったのではるばると千段の石段を上がって参拝した有難味が薄れる気がした。

 根本中堂を過ぎると、左側の石垣の上に嘉永6年(1853)に建立された 「閑さや 岩にしみ入 蝉の聲」 の句碑がある。左右の側面にこの句碑を書いた高橋一具,建立した半沢二丘という人の句が彫ってある。根本中堂から少し先に秘宝館があり、その向かい側に昭和47(1972)建立の芭蕉像、「おくのほそ道」紀行300年を記念し平成元年(1989)に建てられた曽良の像、および「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を刻んだ芭蕉顕彰碑がある。(写真は平成元年建立の像と句碑) 


立石寺奥の院

 奥の院の入口である山門は鎌倉時代の建立である。ここで拝観料を納めて800段余りあるという石段を登り始める。山門からやや登ったところに姥堂がある。十王経に書かれた鬼婆で、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取るという奪衣婆(だつえば)の像と地蔵尊が並んで祭られている。姥堂は、これを境にした極楽(上方)と地獄(下方)との分かれ目とされ、極楽浄土への入口とされている。

 更に登ると茶店があり、その山側に蝉塚がある。背後に五大堂や納経堂、開山堂をいただく百丈岩の絶壁がそそり立っている場所である。蝉塚は尾花沢の養泉寺に碑のある俳人壷中(こちゅう)を中心とする俳諧仲間が、宝暦元年(1751)に芭蕉が書いた短冊を埋めて石碑を建てたところで、碑表に「芭蕉翁」の三文字、側面に「静さや岩にしミ入蝉の声」の句が刻まれているというが風化して定かでは無い。また茶店の奥から右手に回ったところに、昭和35年建立の「おくのほそ道」の山寺の段を刻する巨石「芭蕉顕彰碑」がある。(写真は仁王門)

 蝉塚で一息入れ更に進むと、道の右側に「弥陀洞」と呼ばれる直立した巨岩が見えてくる。その先に奥の院の山門・仁王門があり、弥陀洞から仁王門を眺める光景は、立石寺一山の中で格別に美しい風景の一つとされ、紅葉の季節になると仁王門周辺のもみじが更なる絶景を醸し出すといわれる所である。仁王門の先に幾つかの寺院があり、更に進むと奥の院と五大堂に行く道に分かれる。左手の五大堂への道を行くと慈覚大師の廟所である開山堂と立石寺一山の衆徒が書写した経文を安置する納経堂がある。(写真左 納経堂、右 納経堂と開山堂)

 さらに岩山の間を行くと正徳4年(1714)に再建されたという舞台造りの五大堂の着く。そそり立つ岸壁の上に建つ五大堂は麓からも良く眺められ、ここからの景観は山寺随一とされている。 暫らく五大堂からの眺望を楽しんだ後、引返して奥の院に進む。千年以上昔からの「常火」が灯る「奥の院」は、正式には「如法堂」という。奥の院の左手に大仏殿があり、丈5mの金色の阿弥陀如来像が安置されている。ここまで登ると山寺の街は遥か下方で木々の茂みの間から散見するだけだが、遥々と登って参拝したという安堵感が残る。写真は左側大仏殿、右側如法堂)


 2時間を山寺立石寺の参拝に費やした後、山麓の山寺芭蕉記念館に行く。ちょうど平山郁夫シルクロードデッサン展をやっていた。最後に記念館の山側の座敷から山寺立石寺の全体の景色をゆっくり眺めた。ここの売店では「えんにんさん」というよもぎを混ぜた福餅が有名である。「えんにんさん」は立石寺や瑞巌寺を開山した慈覚大師円仁のことで東北では大師様と言うと弘法大師空海ではなく慈覚大師円仁を指している。もっとも日本で最初に朝廷から大師号を授かったのは慈覚大師なので当たり前なのであるが‐‐‐‐。(写真は左手に五大堂、右手上方に釈迦堂が見える)


 「尾花沢」のところで芭蕉のおくのほそ道の旅は、平泉までが第一巻になるのではないかと言うようなことを記したが、別な区分では歌枕を尋ねて「松島」の風景を賞するまでが第1章で、次の「平泉」での義経の跡を尋ねるのが第2章、そこから出羽越えをして「山寺」までが第3章であるとも言える。そして「松島」までは秀句が生まれず、「平泉」から「山寺」に掛けて「夏草や----」と「閑けさや----」の後世に残る名句が生まれている。

これは歌枕から開放されて芭蕉本来のゆったりした気持ちに戻ったからだと言われるが、「おくのほそ道」を読んでも平泉から出羽越えをする前と後とでは、対象により素直に向き合い、人との対応にものんびりした感じが増えてくるようだ。殊に尾花沢での10日の滞在は芭蕉の気持ちを大いに安らげたに違いない。芭蕉の説く「不易流行」の萌芽はこの頃からあったのかもしれない。それは多賀城で「壷の碑」に出会った時の感激や数多くの歌枕の栄枯盛衰を実感したこと、また仙台での大淀三千風の不在と尾花沢での鈴木清風との出会いとの明暗、山寺での何の先入観の無い自然との出会いなどで徐々に具体化されて来たのではないかと思う。
 (H14-10-17山寺立石寺訪) (H20-4-20天童訪)


注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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