イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 倶利伽羅峠 ]

H22-2-13作成 

 芭蕉はおくのほそ道に 「卯の花山、くりからが谷をこえて」 加賀金沢に入ったと記している。卯の花山は柿本人麿の「かくばかり 雨の降らくにほととぎす 卯の花山になほか鳴くらむ」の歌枕の地で小矢部市にあるという。くりからが谷は倶利伽羅峠である。

 峠の登り口に埴生護国八幡宮がある。この社は千三百年の歴史を持ち、木曽義仲は倶利伽羅合戦の勝利を祈願し、また芭蕉も参拝した。本殿,拝殿は重要文化財に指定されている。正規の参拝ルートは108段の長い石段を上がるようになっており、その上がり口には木曽義仲が馬に騎乗している像があるのだが、車で社の後方から入ったので分らなかった。
 峠には八幡宮の前から源平ラインという整備された道を登って行く。山頂近くに倶利伽羅不動寺という大きな寺がある。倶利伽羅峠の由来はこの寺から来ており、倶利伽羅の意味はサンスクリット語で「剣に黒龍の巻いた不動さん」ということだそうである。ここには弘法大師が彫ったとされる御前立不動尊が安置されていて日本三大不動の一つとされており、江戸時代に加賀前田藩の祈祷所としてまた参勤交代の休憩所として栄えたといわれる。

 峠付近は県立公園になっており、大きな源平供養塔が立っている。また源平合戦火牛の計像があり、その付近のやや平坦な地が猿ヶ馬場古戦場という10万余騎の平家軍が終結した場所である。
 この場所に江戸宝暦年間に建てられた 「義仲の 寝覚の山か 月かなし」  との芭蕉塚句碑がある。更に少し離れた場所に最近建てられた同じ文句の句碑がある。この句は8月15日に敦賀で詠んだ「芭蕉翁月一夜十五句」の中の句である。芭蕉は義経びいきと同時に義仲びいきでもあるのだが、奥の細道では倶利伽羅峠については一言も触れていない。敦賀で月を詠んだ十五句からも選ばなかったので、地元の俳人が残念に思い建立したものである。

   峠を過ぎると加賀に入る。芭蕉が江戸深川の採茶庵を旅立ったのは陰暦3月27日、現在の暦の5月16日である。山寺には陰暦5月27日(陽暦7月13日)、象潟には陰暦6月16日(陽暦8月1日)、出雲崎には陰暦7月4日(陽暦8月18日)に着いている。そして倶利伽羅峠を越えて北陸路金沢に着くのは陰暦7月15日(陽暦8月29日)であり、新緑の江戸を離れてから106日目の秋の気配が漂う頃だった。

 芭蕉は象潟から酒田に戻った後、今の暦の8月10日に酒田を出て、8月29日に金沢に着いている。夏の盛りの19日にわたる越後路・越中路について、 「暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。」 とおくのほそ道にはそれぞれ数行しか記していない。酷暑の道中はそれだけでも辛かっただろうが、更に知る人もなく紹介状があるのに宿を断られたりして精神的にも疲れたせいもある。

  しかしそれだけでは紀行文にならないので、市振での歌仙での花の座にあたる場所に遊女との彩りのある挿話を入れる事によってバランスをとったのだろう。

 源平ラインを峠から下ると倶利伽羅源平の郷竹橋口という石川県側から倶利伽羅峠に行く歴史国道の出発点になる道の駅に似た休憩・展示の建物がある。ついでながら富山県側には埴生護国八幡宮の近くに倶利伽羅源平の郷埴生口という同様な建物があるそうである。ここから国道8号線に出て金沢までは車で30分ほどの距離である。
    (H
16-10-12訪)


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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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