イバイチの奥の細道漫遊紀行

[おくのほそ道の俳句(3)]

H27-5-25作成


 「おくのほそ道の俳句(3)」は奥羽山脈を越えて尿前の関から象潟までの次の十句をYouTubeでアップした。

  尿前の関   21   蚤虱 馬の尿(しと)する 枕もと

  尾花沢     22   涼しさを 我が宿にして ねまる也

           23   まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花

  立石寺     24   閑(しずか)さや 岩にしみ入 蝉の声
 
  最上川     25   五月雨を あつめて早し 最上川
 
  羽黒      26   涼しさや ほの三か月の 羽黒山

           27   雲の峯 幾つ崩て 月の山

           28   語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

  酒田      29   暑き日を 海にいれたり 最上川 

  象潟       30   象潟(きさかた)や 雨に西施が ねぶの花 

 平泉を出た芭蕉一行は鳴子温泉に近い尿前の関を通り、出羽街道中山越という険しい山道を越えて尾花沢に向かった。途中風雨が激しく、3日間封人の家という国境を守る役人の家に泊ったが、馬小屋もその家の中にあったのである。

 この後、山刀伐(なたぎり)峠越えをするのだが、この道は判りにくく、山賊もよく出るとと言われて、屈強な男を案内人にして越えたと記している。

 尾花沢には俳友であり、紅花を商う豪商でもある鈴木清風が居り、歓待されて10泊している。平泉を出たのが5月13日(陽暦6月29日)、尾花沢を出発したのは5月27日(陽暦7月13日)の梅雨が明けて真夏になろうとする頃で、丁度紅花の開花期であり紅花摘みが盛りの頃だった。

 尾花沢で清風から山寺立石寺は一見の価値があると勧められ、寄り道して訪れた。曽良の「俳諧書留」には「閑さや---」の句は、「山寺や 石にしみつく 蝉の声」と記されている。それを何回か推敲して現在の句に仕上げて「おくのほそ道」に記したのである。

 芭蕉は新庄市の本合海から最上川の船に乗った。白糸の滝や仙人堂について記した後、「水みなぎつて舟あやうし 五月雨(さみだれ)を---」と締めくくっている。

 最上川の舟下りの後、芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を巡り三山巡礼の句を詠んだ。三山巡礼は現世の羽黒山から死の世界である月山に行き、湯殿山で再生して新しい自分と向き合う旅という言い伝えがあり、新たな気持ちで山を下りたことだろう。

 三山巡礼で7日間過ごした後、鶴岡経由酒田を訪れた。酒田は江戸時代から日本海側屈指の良港として繁栄していた。芭蕉一行は途中象潟での2泊を除き、9泊している。また酒田は最上川が日本海に注ぐ場所であり、舟下りと違った最上川の句を詠んでいる。

 芭蕉は象潟について「松嶋ハ笑ふが如く、象潟ハうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」 と明るい松島と対比して雨に煙る中国の絶世の美女西施の面影として詠んでいる。

 象潟は当時松島と共に景勝地として知られていたが、芭蕉が訪れてから約110年後の文化元年(1804)の鳥海山の大噴火により陸地が隆起し、水が引いて小さな丘ばかり残っっただけで衰退してしまっている。

 (以下次号)