かちがらす「幕末を読み切った男」
植松 三十里(みどり)
小学館 2018年2月発行
肥前佐賀藩は幕末の雄藩「薩長土肥」.と云われ、明治維新に大きな役割を果たしたとされているが、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、土佐の坂本龍馬などに比べて、幕末の肥前の有名人の名はあまり出てこない。
従って肥前佐賀藩がなぜ幕末の雄藩といわれる位置に居るのか判らなかったが、この本を読んで、他藩のような下級武士が権力を握って活躍するのではなく、藩主主導で、強藩になって行ったのだと判った。
17才で藩主になった主人公の鍋島直正が初のお国入りの時、商人が売掛金の支払いを求めて藩邸に押しかけ、出発を延期させられた冒頭の話から21才の時、佐賀城が火災で焼け落ちて、藩の困窮が更に増えたとき、幕府から2万両の貸付金を貰うことに成功し、本丸を再建することになった。それを基にして従来の三分の一にあたる人員整理をして、藩政の改革を進めることが出来た。
それはそれで一つの物語になるのだが、この本では一つの挿話として述べられているだけであり、主題は佐賀藩が命じられている長崎警備の話になる。当時清国とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発し、清国が完敗した頃で、直正が長崎警備の台場を視察に行くと小さな青銅砲があるだけで、オランダ船の大砲の足元にも及ばないことが判った。驚いた直正は西洋式の大砲を製造しようと思い立つ。
大砲を作るためにはまず、鉄を溶かす反射炉が必要であり、その費用として幕府から十万両の借り入れに成功した。しかしなかなか鉄が溶けず4回失敗したが、5回目にやっと溶かすことに成功した。そこから大砲を造り出すためには砲身の耐久性が問題になり、砲身をくり抜くために水車を利用することにした。その頃、蒸気機関を造りたいという田中久重(からくり義右衛門)という人材にも恵まれて、蒸気機関の開発を進め始めた。
その頃アメリカからペリー艦隊が来日し、国書を提出して国交を求め翌年の再来航を予告して立ち去った。そのため幕府は江戸湾の守りを固めるため、佐賀藩に品川台場に設置する大砲五十門が発注された。またロシアも4隻の艦隊が長崎に国交を求め来航したが、長崎湾口の台場にはすでに多数の大砲が設置されており、ペリーのような威圧的な態度は示されなかった。
佐賀藩はすでに反射炉4基が完成し更に4基を作成し始めていたので幕府の要求にこたえることが出来た。また幕府がオランダに新しく蒸気船を発注するとになり、佐賀藩も同じ型の新造船を発注し、約1年後電流丸と名付けた蒸気船が届けられた。
さらに10年が過ぎた元治元年(1864)、第一次長州征伐が終った頃、念願の国産初の蒸気船が佐賀藩で完成した。凌風丸と名付けて早速試乗した直正は反射炉が完成し、ペルー来航以来、内外の忙しさに追われすべて任せきりだった現場の苦労を顧みて「佐賀こそが日本一の技術の国だ」と叫んで、皆を感泣させたのである。
すでにライフル銃を多数持ち、アームストロング砲を10門も保有した佐賀藩は幕府を始め他藩から恐れられる強藩になっていた。終章の頃内乱は国を亡ぼすとして、徳川慶喜に対し病身を押して二度にわたって政権返上を説得した直正を、作者は感動的に描いている。
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