イバイチの幕末の水戸(1)

[ 桜田門外ノ変 ]

H23-9-1作成   

1. 桜田門外ノ変

  昨平成22年の大河ドラマ「竜馬伝」は珍しく毎回見てしまった。平成19年の「風林火山」以来のことである。そしてそれに引きずられた格好で司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んだ。司馬遼太郎の本は「坂の上の雲」をはじめ「菜の花の沖」「翔ぶが如く」「項羽と劉邦」「花神」「最後の将軍」など数多く読んだが、「竜馬が行く」は読んでいなかったのである。

 すでに読んだ方が多いと思うので詳しくは述べないが、その中に桜田門外の変のことが書いてある。あの事件があったために、それまで強大な権力があると思われていた徳川幕府も案外もろいものだと世間が思うようになり、それまでは勤皇の志士と言われた者も、ただお題目の様に尊王攘夷だと騒いでいただけだったが、もしかしたら幕府を倒せるのかもしれないとはじめて考えるようになり、桜田門外の変が尊王倒幕の魁になったと云う様な事が書いてあった。

 昨年(平成22年)10月に映画「桜田門外ノ変」が全国でロードショーが始まり、平成23年になっても引き続き上演されている。この映画は茨城県の有志により平成21年に水戸藩開藩400年を迎え、また2010年(平成22年)は1860年陰暦3月3日の桜田門外の変から150年目にあたるので、映画の製作をして茨城の魅力を全国にPRしたいとのアイデアから生まれたのである。(写真は映画の宣伝チラシの一部)

平成20年に「桜田門外の変映画化支援の会」が組織され、茨城の官民挙げて支援する体制で、3億円の資金を集め水戸市千波湖畔にメインとなる桜田門周辺の大きなオープンセットをつくった。またエキストラの募集、ロケ隊に対する炊き出しを含めた受け入れ態勢作りやオープンセット見学と映画の入場券をセットにした割引販売、オープンセットと展示館の運営管理などの活動を行ってきた。(写真は桜田門と彦根藩赤門のセット)

 そのような活動状況は多くのマスコミに報道されて、茨城県水戸市在住の筆者は否応なしに関心を持たざるを得なかった。映画などは年間数えるほどしか観ていないが(平成22年に観たのは他に「カールじいさん空飛ぶ家」という3D映画だけである)、この映画は観に行った。
(写真は近江彦根藩上屋敷伊井邸から眺めた暗殺現場付近のセット。手前右側が安芸広島藩上屋敷、藩主松平安芸守。中ほどが豊後杵築(ぶんごきつき)藩上屋敷、藩主松平大隅守。奥の横長のなまこ壁が出羽米沢藩上屋敷、藩主上杉弾正。)

 監督の佐藤純彌も主人公の関鉄之介を演じる大沢たかおも知らないが井伊直弼役の伊武雅刀、徳川斉昭役の北大路欣也、襲撃を立案した金子孫二郎役の柄本明など知っている俳優も何人か居た。

 映画の冒頭で、関鉄之介の脱藩から襲撃計画の打合せ、桜田門外の襲撃実行までのこの映画の山場を最初に持ってきている。そしてその後、遠因になった井伊直弼と徳川斉昭との確執と時代背景を説明し、最後に事こころざしに反して犯罪者として追われ処刑されるまでを描く構成だが、何故大老の暗殺決行の止む無きに至ったのかの説明が弱いと思うのは、水戸側からの思い入れが過ぎるからだろうか。
(写真は上杉邸側から見た襲撃現場と伊井邸側から見た現場のセット。当日は傘見世と称する葭簀(よしず)張りの茶店が二軒出ていた。)

 しかし吉村昭の原作を読むと、幕閣の動き、斉昭の施策、伊井大老の弾圧、水戸藩の門閥派と革新派の対立などが時代と共に変動する様子が描かれており、なるほどと納得できることが多いので、映画でももっと強調して欲しかった。また後半の逃避行で、鉄之介がこの事件で井伊側を含めて多くの人命が失われたことを悔やむ場面があるが、もう少し事件についてゆれ動く自分の感情を表現する場面があった方が、観客には中途半端な気持ちにならなかったのではないかと思う。(写真は原作の新潮文庫版 桜田門外ノ変 [上]・[下] 巻)

 桜田門外の変の立案者は改革急進派の高橋多一郎と金子孫二郎である。当初の計画では50人ほどの人数で井伊大老と老中安藤信睦を暗殺する予定だったが幕府の警戒が厳しくて人数が集まらず、井伊大老に絞り水戸脱藩浪士17名と盟約を結んだ薩摩藩士1名の計18名で実行することになった。安政7年(その後改元して万延元年)3月3日の襲撃により、暗殺は成功するのだがもとよりそれだけが目的ではなく、薩摩藩との協力により、尊王攘夷の実行を幕府に迫ることが目的だった。
(写真は松平大隅守邸前の襲撃シーンの撮影が行われた場所)

 そのため、薩摩藩の在府組と盟約を結び暗殺成功と同時に薩摩藩から3000名の藩士が京都に進み、天皇の詔勅により幕政を革新しようということが決まり、高橋多一郎と金子孫二郎は同行の水戸浪士1名と薩摩藩士1名と共に京に上り薩摩藩と合流することになった。また井伊大老暗殺に成功した後、生き残った者も京に上ることになっていた。しかし薩摩藩主の島津斉彬が急逝したため、次の藩主の後見役になった島津久光がそれを抑制し、計画は頓挫していたのである。

 また水戸藩でもお家の断絶を恐れて高橋多一郎と金子孫二郎をはじめとして関係した浪士を犯罪者として追及することになり、高橋多一郎は自刃し、金子孫二郎は斬首された。さらに桜田門外の変から5カ月後に徳川斉昭は急死したこともあり、暗殺を実行した18名と京に上った4名の計22名のうち明治まで生き残った者は僅か2名だけだった。
(写真は映画の宣伝チラシの一部。最前列中央が柄本明扮する金子孫二郎、その後ろの茶の袖なし羽織が主人公の大沢たかお扮する関鉄之介)

 桜田門の変の指揮を執った関鉄之介は暗殺成功後大阪に向かい、そこで薩摩が起たないことを知って、真意を確かめるべく薩摩藩まで行ったが、警戒が厳重で入国出来ず、常陸に戻り以前から親交のあった袋田村(現在の茨城県大子町)の大庄屋桜岡源次衛門に匿われた。桜岡源次衛門の屋敷跡は現在の「袋田温泉ホテル想い出浪漫館」になっているがその入り口付近に鉄之介が詠んだ歌碑が建てられている。しかし探索が厳しくなり越後の下関村(現在の新潟県関川村)まで逃れたが、そこで捕えられて水戸から江戸に送られ斬首された。(写真は関鉄之介の歌碑と解説板)

 映画の最後のところで、官軍が江戸城明け渡しを受けて桜田門から入城する場面があり、総大将の西郷隆盛に「すべてはここから始まったのだ」という感慨を言わせているが、この桜田門外の変から明治維新までは僅か8年の年月しか経っていなかったのである。
(写真は高麗門と呼ばれる外側の桜田門から入り、その内側にある渡櫓門と呼ばれる内桜田門のセット)

 水戸市谷中にある常磐共有墓地に高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介などの墓がある。水戸藩では徳川光圀が藩士のために上市に常磐、下市に酒門の2ヶ所の共有墓地を作り、墓碑のかたち、大きさを定めて無料で使用できるようにした。常磐共有墓地には水戸黄門の格さんでお馴染の安積澹泊(あさかたんぱく)をはじめ藤田幽谷、東湖などの墓もある。(写真は関鉄之助、金子孫二郎、高橋多一郎の墓碑)

 水戸藩では二代藩主徳川光圀が全国から優れた学者を集め「大日本史」の編纂をはじめ、それが水戸学に発展して行った。幕末にはその尊王の思想が夷敵打ち払い令と結びつき尊王攘夷の思想的バックボーンになったのである。しかし水戸藩主は常に在府して御三家の中でも将軍を補佐する立場であり、その二面性が水戸藩士を真っ二つに割って明治初年まで藩内の争いが続き、多くの人材が失われたのである。


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