イバイチの幕末の水戸(2)
[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その1 ]
H23-9-1作成
2−1 はじめに
水戸市谷中の常磐共有墓地に隣接して回天神社と水戸殉難志士の墓がある。入口にある石文によると元治甲子の変で亡くなった勤皇志士のうち氏名が判っている374名の墓碑が水戸殉難志士の墓として大正3年に建てられ、昭和44年に安政の大獄以来の水戸藩の勤皇殉難志士1,785名の霊を祀る回天神社が創建されたと記してある。(写真は回天神社と水戸殉難志士の墓)
水戸藩では安政の大獄で徳川斉昭の国許永蟄居をはじめとして、家老などが死罪を命ぜられるなどの弾圧を受け、万延元年(1860)に桜田門外の変が起こったが、その後も勤皇佐幕の勢力が拮抗し、元治元年(1864)に天狗党の筑波山挙兵に始まる元治甲子の変の結果佐幕派が勝利し、勤皇派は越前敦賀で斬殺された者を含めると1,500名余の人命が失われた。(写真は昭和44年と平成10年の殉難志士の解説碑)
また慶応3年(1867)の王政復古により勤皇派が復権すると佐幕派に対する報復が始まり、水戸藩の戊辰戦争と言われる抗争が続いて明治元年(1868)までに更に多くの人命が失われ、水戸藩の人材は枯渇してしまったのである。
この天狗党の乱(元治甲子の変)については作家の吉村昭が「桜田門外ノ変」のあと著した「天狗争乱」に詳しく書かれているが、事件が広範囲に亘るため、後半の天狗勢が上洛を決意し、冬、幾多の困難を乗り越えて深い雪の中を越前敦賀まで行ったが目的を果たせず、352人の多数の武士が斬首された事象についての印象が強烈で、何故そういう事態になったのか分かりにくいところがある。そこでまず水戸藩内部の革新派(勤皇派、天狗党と呼ばれる)と守旧派(門閥派、諸生派と呼ばれる)の対立から話を進めたい。
2−2 徳川斉昭の登場
幕末の水戸藩ばかりでなく、幕政に大きな影響を与えた人物は常陸水戸藩の第9代藩主徳川斉昭である。斉昭は藩校弘道館や偕楽園を設立したことでも知られているが、従来の門閥にとらわれず藤田東湖、戸田忠太夫、会沢正志斎、安島帯刀などの人材を積極的に登用し藩政改革を行った。
文政七年に水戸藩大津浜(現在の茨城県北茨城市)にイギリスの捕鯨船の乗組員が上陸し食糧などを求めた事件があり、長大な海岸線を持つ水戸藩は江戸にも近く、夷敵が上陸する適地であると脅威を感じて国防に力を入れるようになった。この時尋問に当たったのが初代弘道館館長になった水戸学を代表する思想家である会沢正志斎で、正志斎はその翌年水戸学の尊王の思想と攘夷を合わせた尊王攘夷思想と幕政の改革も含んだ「新論」を著し第8代藩主斉脩(なりのぶ)に上呈した。しかしこれは危険思想とみなされ出版は許されなかった。
しかし、斉昭が藩主になったことによってその尊王攘夷論は全面的に支持されて改革が進められ、幕政にも大きな影響があったが、その急進的な施策が基で斉昭は文政12年(1829年)に藩主になってから15年後の弘化元年(1844年)に、幕命により強制隠居謹慎させられ、改革派の藤田東湖、戸田忠太夫、会沢正志斎、安島帯刀、武田耕雲斎らも職を解かれ謹慎処分になり、門閥派の結城寅寿が執政となった。5年後の嘉永2年(1849年)、斉昭が藩政に復帰すると結城は失脚し、第10代藩主慶篤(よしあつ)の暗殺を図ったとして死罪になった。
改革派は再び登用され斉昭を補佐したが、安政2年(1855年)に起きた安政の大地震で藤田東湖、戸田忠太夫が死亡し、改革派は大きな痛手を受けた。その頃将軍継嗣問題と水戸藩に対する攘夷実行の勅諚(戌午の密勅)問題などの事件があり、大老の井伊直弼により安政5年(1858年)から6年にかけて安政の大獄が引起こされた。そのため斉昭は水戸での永蟄居を命ぜられ、水戸藩家老だった安島帯刀は切腹させられた。
それが安政7年(1860年)の桜田門外の変につながるのだが、その混乱が続くなか斉昭は桜田門外の変から半年後に心筋梗塞で急逝したため、水戸藩の改革は中途半端になり、更にその後起きた東禅寺事件(桜田門外の変の翌年水戸藩尊攘派の脱藩浪士14名が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件)、坂下門外の変(桜田門外の変の翌々年水戸藩尊攘派浪士4名を含む6名が老中安藤信正を坂下門外で襲撃し負傷させた事件)を尊攘派浪士が引き起こしたためその母体であった改革派は藩政から追われ、門閥派が実権を握ることになった。(写真は光圀、斉昭を祀った常盤神社。水戸偕楽園に隣接してある)
2−3 水戸藩の特殊性
水戸藩は御三家の中でも江戸に近いため江戸常府の定めになっており、藩主が領国水戸に帰るのは数えるほどしかなかった。そのため水戸藩内の治世は執政に任されることになるが、任された執政は革新より守旧の方向に行きがちであり、幕末の様な非常時には藩主の意向がなかなか反映されないことが多い。また水戸藩では徳川光圀以来の事業である大日本史編纂により尊王思想が育成され、斉昭が率先した唱えた攘夷論と共に全国の勤皇志士たちの間の旗印として尊王攘夷の気風が広まって行った。
特に会沢正志斎が政治改革と軍備充実の具体策について述べた「新論」は、有志の手によって筆写され全国の志士のバイブル的存在になり、また同じく水戸学の第一人者であり水戸学の理念を「講道館記述義」で説いた藤田東湖は、斉昭のブレーンとして江戸に在勤した時に吉田松陰、横井小楠、橋本佐内、佐久間象山、西郷隆盛などと交わり、水戸学の尊王攘夷思想は全国の尊攘志士の精神的よりどころになった。(写真は常盤神社境内にある藤田東湖を祀った東湖神社と常磐共有墓地にある東湖の墓)
時代の流れは尊王攘夷から尊王倒幕に変わって行くのだが、徳川家親藩としての水戸藩としては幕府を補佐する「尊王敬幕」の立場であり、革新派としても幕府を存続させての攘夷論から逸脱できなかった。一方の守旧派は徳川幕府を補佐する立場から尊王攘夷論を排斥する施策を進めており、両者の対立は深まるばかりであった。また革新派はより急進的な激派とより緩やかな藩政改革を目指す鎮派に分裂し始め、激派は脱藩して浪士となり、前述の桜田門外の変の後、攘夷実行のため東禅寺事件、坂下門外の変を引き起こし、守旧派の台頭を許したのである。
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