平成26年前半のお薦めの本             2014年 7月 6日 (日)
 平成26年(2014)も前半が過ぎた。昨年に引き続き今年前半に読んだ本の中から印象に残った本5冊について述べてみたい。

 今年の前半には48冊の本を読んだ。内2冊は再読だったが昨年は40冊だったのでだいぶ増えた。
 今年6月までに読んだ本の中から5冊選んで読後感を述べる。

藤田嗣治「異邦人」の生涯 近藤 史人2006年〈平成18年〉 1月講談社文庫
            (単行本2002年〈平成14年〉11月発行)

光圀伝          冲方 丁   2012年〈平成24年〉   8月発行
獅子の城塞         佐々木 譲  2013年〈平成25年〉10月発行
桑港にて・燃えたぎる石  植松 三千里 2004年〈平成16年〉 3月発行
義烈千秋 天狗党西へ    伊東 潤    2012年〈平成24年〉 1月発行

1. 藤田嗣治「異邦人」の生涯

 昨年(平成25年)12月に青森から秋田に旅をしたが、その時9月にオープンしたばかりの秋田県立美術館で、藤田嗣治渡仏100周年記念として開催された「レオナール・フジタとパリ1913-1931」という特別展を見た。 秋田県立美術館には2階に藤田嗣治大壁画ギャラリーがあり、そこには藤田嗣治が秋田で制作した大壁画「秋田の行事」が常設展示されている。

 それまで藤田嗣治の事はパリで活躍した高名な画家との認識しかなかったが、この時初めて現在でも海外で一番有名な日本の画家で、ピカソ、ルソー、モディリアーニ、パスキンなどと共にエコール・ド・パリを代表する画家だという事を知った。

 また毀誉褒貶が多く、晩年はフランスに帰化し、レオナール・フジタとしてフランスの片田舎に葬られたということも知り、どのような人物だったのか興味を持ち読んだ本である。単行本は2002年に発売され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

 藤田嗣治は第1次世界大戦が終わった1920年代(大正10年頃から昭和の初め頃)にエコール・ド・パリを代表する画家の一人となり、世界的に有名になったが日本の画壇では作品の評価では無く、おかっぱの髪形や多彩な女性関係ばかり喧伝されほとんど無視されていた。

 1929年(昭和4年)パリから17年目に日本に戻ってきた藤田は一般大衆から熱狂的に歓迎されたが画壇からは冷遇され、3ヶ月ほどでパリに帰った。その後第2次世界大戦がはじまり、再び日本に帰った藤田は、軍の要請で戦争画を書くようになった。しかし終戦後、画家の戦争責任が画壇で取り上げられ、藤田が戦争画の責任者として日本の画壇から糾弾されたのである。藤田には「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」の様な戦争の悲惨さを表現した傑作といわれている作品を描いているにも拘らずである。

 あれやこれやで日本に嫌気がさした藤田は1950年(昭和25年)にアメリカ経由でパリに渡った。そして1955年(昭和30年)にフランスに帰化し日本国籍を抹消した。その後最後の仕事としてランスという町に礼拝堂を建設し、1968年(昭和43年)に81才で亡くなったのである。

 この本を読んで一番感じたことは、成功した人物に対して称賛するのではなく、嫉視し陥しめようとする日本人の悪しき特性が、世界的に著名になった藤田をして「日本に捨てられた」と思わせしめ、フランスに帰化せざるをえない様にした日本画壇を含めた日本という国の在り方のことである。

 昭和から平成になって26年経つが、藤田が生きた時代と同じように現状から逸脱し新しい事を始めようとする時、既成勢力の強い圧力を跳ね返し理解と協力を得ようとする事の困難さから、心ならずも現状に埋没してしまうとか、頭角を現してくるとその事物以外の事で非難し、新しい才能の芽を潰してしまうとかして、日本国全体が新しい事を打ち出せず停滞してしまっているのは現在も変わりないのではないかと思った。

2. 光圀伝

 作者の冲方丁(うぶかた とう)は平成21年に初の時代小説「天地明察」を刊行し本屋大賞を受賞している。この本の主人公は江戸時代に中国歴から日本歴に改暦を実施した渋川春海(二世安井算哲)だったが、光圀はその事業の後援者でもあり、この本の中でもそのことを書いてある。

 「光圀伝」は水戸の徳川光圀の一生を750ページの大作で描いた、まさに大河小説である。光圀はテレビの水戸黄門とは違って、年少の時に生首を取りに行かされたり、江戸市中を傾奇者として暴れ回ったりする乱暴者だった。

 しかし林羅山の子息の読耕斎と厚誼を結び、学問に励むようになる。また伯夷叔斉の故事から兄の松平頼重を超えて世子になったのを恥じて兄の子を嗣子にする決意をするが、その実現のために悩みながらそれを実現して行き、義を全うしようとする。

 また修史編纂を進めていた林羅山一門や尾張大納言義直の文庫の膨大な書物が明歴の大火により焼失したため、史書編纂を志し彰考館を作った。更に明国から朱舜水を招聘して治国斉民の師とした。

 そのような光圀の事績を多くの個性的な魅力を持つ人物を配して描き、光圀自身の内面の心の動きを的確に表現する筆力は「天地明察」でも感じた事だが素晴らしいものがあり、大作を飽きさせることも無く描ききっている。

物語の最初に藤井紋太夫を手打ちにした理由を物語の最後に語っているが、それは後年の徳川慶喜の大政奉還の遠因は光圀が示した義とは何かを突き詰めて行き、大日本史を編纂し、皇統を明らかにすることが日本の為政者の大義であるとの光圀の考え方を推し進めると当然の帰結になって来る。それを徳川御三家の一人としてまた天下の副将軍と云われた光圀が打ち出したことによって多くの矛盾を生じ、幕末の水戸藩が天狗・諸生に別れ藩を二分して争った悲劇につながったことを藤井紋太夫にかこつけて言わしめたのである。

なお大日本史編纂はその後の幕末の混乱時にも休むことなく続き、光圀が史局を設けてから250年後の明治39年までかかって完成しており、これもまた凄い事である。

3. 獅子の城塞

 佐々木譲の本は「廃墟に乞う」の直木賞作品の前から「うたう警官」「制服捜査」などの刑事ものを中心に20冊以上読んでいる。しかし刑事もの、警察関係以外の時代もの、歴史ものの著書も多い。その中で平成19年に「天下城(上下)」という信長の安土城の石垣を築く穴太(あのう)衆の棟梁戸波市郎太の話があった。

 佐久の下級武士の息子だった市郎太は武田信玄に佐久の地侍たちが敗れ、人買いの手で金山の鉱夫にされたが、信玄と村上義清の戦いで信玄が敗れた時脱走して諸国を流浪し、縁あって石積み職人の集団である穴太(あのう)衆の一員になり、織田信長の知遇を得て安土城の石積みを穴太衆の総棟梁頭となって完成させたのである。

 市郎太には2人の息子がいた。信長は安土城の後、西南蛮(西洋)の城の様にすべて石積みの城を築きたいと考え、ローマ教皇の許に送る少年使節団と共に西南蛮の石積みを学ばせたいと市郎太に話し、市郎太は二番目の息子である次郎左にその任務を託した。

 今回の「獅子の城塞」はその二番目の息子である戸波次郎左の話である。次郎左は4名の少年使節団と共に長崎を発ってから3年1カ月を費やしてインド洋から南アフリカ喜望峰を回り、大西洋を北上してポルトガル経由ローマに到着した。その間に日本では次郎左を西南蛮に送った織田信長が暗殺され、安土城も焼失していた。

その頃のローマはカトリックとプロテスタントとの争いが激化し、神聖ローマ帝国軍がローマを襲い「ローマの劫略」といわれる略奪をおこない、建築中だったサン・ピエトロ大聖堂の作業も中断されていた。

少年使節団が日本に帰った後も次郎左はローマに留まり、再開されたサン・ピエトロ大聖堂の建設に従事していた。そして次郎左がローマに来てから5年後にサン・ピエトロ大聖堂の円蓋が完成し、次郎左はその最後の要石を嵌め込む栄誉を担った。

その後次郎左はフィレンツェに行き新しい稜堡様式という多角形に稜堡が突き出した形で城壁を積み、石工仲間のギルドである組合員に推薦された。更にイスパニア(スペイン)からの独立戦争をしていたネーデルランド(オランダ)に行ってブレダという城郭都市で稜堡様式の城壁普請をすることになった。
ネーデルランドの独立戦争に巻き込まれながら城壁の築き直しや拡張を進め、アムステルダムの城壁拡張普請などを行って独立に貢献し、後継者にも恵まれて、家康の江戸幕府樹立により新しい城壁建築が不要になった日本に帰ることなく現地で没した。

この本を読んで感じたことは、安土桃山時代に中国やインドなどのアジアの国々ならまだしも、はるか遠いヨーロッパまで出掛けて西洋風の石だけの城壁造りの修行をした人物の造形の意外性、日本とは全然違った石だけの建築についての蘊蓄、当時の大砲の登場によるヨーロッパの城作りの変革、などの絡みがドラマチックに展開されるのだが、それをエンターテインメントにするのではなく淡々と描写する筆者の筆使いに好感が持てた。

特に日本の自然石を積み上げる方式に対比し、寸法に合わせて正確に石を削り、組み合わせて高層の建物を作り、円形の屋根や石橋などは円弧とその中心から角度を計算し、両側の押し合う力を石を切り揃えることで均一化し、最後に要石を入れて固定するという原理を説明する場面などは良く判り、作者が好きだという現場の技術者や職人が良く描写されている。

4. 桑港にて・燃えたぎる石

 植松 三千里(みどり)という作者の本は読んだことがなかった。たまたま図書館で手に取ったこの本の著者略歴に歴史文学賞を受賞したとあったので、読んだ本である。

 話は幕末に咸臨丸がサンフランシスコに入港したが2カ月後帰国する時に8人の入院患者が居て、その付き添いに2名が残された。館長の勝海舟は現地の貿易商に一緒に帰港出来なかった10人の世話を頼み、咸臨丸がサンフランシスコを離れて約3カ月後に、現地で死亡した1人を除いて9人が函館に送り届けられた。

 その下級船員の話に焦点を当て、同行した勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などの著名人の話は殆んど出さず、名も知られない水夫たちの哀歓を描いたことが受賞に繋がったのかもしれない。

 しかしこの話よりも同書に併録された「燃えたぎる石」のほうが、印象が深かった。「燃えたぎる石」は常磐炭田を開発した片寄平蔵という人物の話である。時は幕末、黒船騒ぎの時、常陸の笠間藩の飛び地だったいわき市四倉で材木商を営んでいた平蔵は、黒船を動かす蒸気船の燃料が石炭であることを知り、子供の頃、国許で燃える石を見た事があったことを思い出し、探しまわった末、石炭の鉱脈を発見した。それを笠間藩の伝手を頼り、幕府が購入した軍艦に石炭と石炭から造った炭油(タール)を売り込むことに成功した。

 ペリーの黒船来航後、諸外国と通商条約が結ばれ横浜が開港された。その時、幕府の要請により平蔵は横浜に外国船に石炭を販売する店を設け、本格的に海外との通商を始めた。その頃江戸では安政の大獄があり、また大老井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が発生し、攘夷の勢いが高まっていた。横浜でもロシヤ人が殺傷される事件が起き不穏な空気に包まれていた。

 そんな中、郷里の四倉で落盤事故が発生したとの知らせを受けた平蔵は慌てて横浜から馬に乗り磐城に急行したが、落盤事故という偽の情報を流して待ち受けていた水戸の脱藩浪士たちに切り殺されてしまったという悲劇である。

 片寄平蔵はいわき市では常磐炭田の生みの親として称えられているそうだが、その事績はこの本を読んで初めて知った。作者はこの本のあとがきに「彼が生きて明治を迎えれば、渋沢栄一や岩崎弥太郎に勝る仕事を、成し遂げたことだろう。」と記されていたが同感である。

5. 義烈千秋 天狗党西へ 

 作者の伊東潤の本は今年になってから初めて読んだが、半年間で4冊も読んだ。「黎明に起つ」「巨鯨の海」「王になろうとした男」と本書である。

 天狗党については吉村昭の「天狗争乱」という大著があり、同じ作者の「桜田門外ノ変」と共に熟読していたので、伊東潤がどのように書くのか興味があった。本書では天狗党の実質的な総裁である藤田小五郎にスポットを当て、ことこころざしと違って破滅に追い込まれていく悩みを主体に書き進めている。「天狗争乱」を読んだ時もそうだったが先行きに確固たる目標が作れず、従来の考え方から抜け出られない周囲の人々と共に、いたずらに流されていく過程にやるせない思いを抱きながら読んだ。それにしてもこの本にも書いてあるが、天保10年(1839)の水戸藩家臣団名簿には3,449人の名が記されていたが、慶応4年(1867)には892人に減っていたとのことである。いかに水戸藩内の抗争が激しかったかを物語っている。
 小生は水戸市に在住しており、天狗党についても関心があったので戦闘のあった下仁田や和田峠を訪ね歩き、最後に処刑された敦賀も訪れた。ホームページ「イバイチの旅のつれづれ」の中に「イバイチの幕末の水戸」という章を特に設けてアップしてあるので、参考にして貰いたい。

 今回、感想を述べた本には水戸藩に関わる本が2冊あった。また「燃えたぎる石」は茨城と福島の間にある常磐炭田の事であり、水戸浪士が関係するので広い意味ではこれもまたわが郷土に関する本である。地元に関する本はどうしても思い入れが深くなる。

 他の2冊は日本を離れてヨーロッパで活躍した人物に関する本である。「桑港にて」も海外での出来事を書いた本であり、狭い地元と広い世界と極端に離れた事象の本の紹介になった。

 今回、植松三千里、伊東潤の本は初めて読んだ。他にも澤田瞳子、朝井まかての本も初めて読んでおり、新進気鋭の人の本も楽しみである

(以上)

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