朝井 まかて の 「最悪の将軍」 を読んで 2019年12月4日 (水) |
朝井まかては、2013年(平成25年)に「恋歌」で直木賞を受賞した作家である。
「恋歌」については以前に「恋歌を読んで幕末の水戸藩を思う」で紹介しているが、 (http://www.ibaichi.com/colum/2book/burog108.html 参照) それ以来愛読している作家で、今年まで12冊読んでいる。 今回の「最悪の将軍」も図書館で見て知っていたが犬公方と言われた徳川5代将軍綱吉のことだと思っただけで興味もあまり無く、本を手に取ることもなかった。しかし最近綱吉の再評価の本だということを知り、改めて借りることにした。 最悪の将軍 朝井 まかて 集英社 2016年9月発行 徳川綱吉のことは生類憐みの令で庶民の悪評を受けたということ以外にほとんど知らなかった。 本書によると、まず将軍になった経緯は、綱吉は3代将軍家光の4男であり本来傍系で将軍にはなれない筈だったが4代将軍家綱に嫡子が居らず老中堀田正俊と水戸藩主徳川光圀の指名により思いもよらず将軍になった。 綱吉は4代将軍家綱が進めようとしていた戦国時代の殺伐とした気風を排除し、儒学を重んじる文治政治をさらに推進することにした。即ち武を払い、文をもって世を治めることである。綱吉は将軍家代替わりの都度改訂を加えて発布し直す武家諸法度の第一条から弓馬の道という文言を外した。 そのような時、綱吉の意を体して政務にあたっていた大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺される事件が起こった。それ以降、綱吉は大老を置かず、老中も遠ざけて側用人としての牧野成貞、柳沢吉保を重用するようになる。 生類憐みの令は最初生類を憐れむようとの町触れを出し、食犬の風俗を禁じ放鷹制度を廃止し、鷹を空に放ったことから始まった。しかしそうなると江戸市中が野犬で溢れ、腹を空かせた野犬が人を襲うようになり、野良犬を収容する小屋を新設したりし、次々と新しい町触れを出すことになった。また店先の品物を盗んだ犬を店主が打ち据えるという報があり、役人は店主をとらえ投獄したということで、人よりもお犬様の命の方が重んじられるという風評が立ち、綱吉は何と民の心が御し難いのかと激しい挫折感を味わうのだった。 その頃勅使供応の日に浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で切りつける事件が起こった。綱吉は浅野内匠頭に即日切腹を命じ、吉良は構い無しとした。幕府の面目を失わせたからということである。しかしその後浅野の旧臣が夜中吉良家に押し入り上野介の首をとるという、いわゆる忠臣蔵の事件が起き、対策に苦慮することになる。 また、綱吉の治世の終盤は相次ぐ大火、地震そして富士の噴火などが発生し、さすがの綱吉も富士に向かって、「すべての災厄は綱吉一身にてお受け申し上げる。故にこの国の民に、今一度、生きる場をお与え給え」と祈りを捧げるのだった。 唯一の理解者だった御台所の信子に、綱吉の最後の言葉として「我に邪(よこしま)無し」との論語の言葉が伝えられた。「政には、行いも含めて邪(よこしま)無きよう臨まねばならぬ。」との覚悟をもって将軍職を務めた。ということであろう。 文中、蘭医のケンベルが拝謁した時、「この国のように、命を重んじるよう命じた王など欧羅巴にはまだ一人もおりませぬ。公方様は厳しい決意をもって政に臨んでおられるが、民に対しては実に憐み深く振舞うておられることは、我ら異人にはよう感ぜられまする。この国の民は、豊かな土地に極めてふさわしい、偉大で卓越した君主を得ました。」と述べさせている。
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