朝井 まかて の 「グッドバイ」 を読んで
 

2020年1月31日 (金)
 前回に引き続き朝井まかての作品である。1月11日の朝日新聞の書評欄に、この本の書評が載り興味深ったので、図書館に予約を申し込み今週やっと借りられた。

 グッドバイ  朝井 まかて   朝日新聞出版 

                 2019年11月発行

 この本の主人公は幕末から明治にかけて活躍した女性貿易商である大浦慶である。

 長崎の老舗の油商店大浦屋の娘である希以(きい=慶の若いころの名)は、母を早く亡くし、婿養子だった父は火事で焼けた店を捨てて出奔した。迎えた婿も役立たずと離婚して19才の時、祖父から大浦屋を引き継いだ。

 時は幕末、江戸では黒船来航の直後で世の中が騒がしくなり始めた頃である。長崎では大浦屋の商品である菜種油も先細りとなり、希以は外国との交易を考えようになった。しかしどう進めればよいのか判らずにいたが、偶然、オランダ船の船員が帰国の土産にする品物の調達を頼まれ、その時嬉野茶 の見本を用意し、欲しいという人に売り込んでもらうよう頼んだ、

 それから3年後、その茶葉の見本を見たイギリス人の交易商から注文を貰うことになったが、条件として千斤の茶葉を6日で集めることになった。悪戦苦闘の末、期日までには9百斤しか集められなかったが、期日を守ったことで信用して貰い、翌年は一万斤の注文を受けることになった。
 
 それを足掛かりにして大浦屋は茶葉の交易で財を成して行き、グラバーなどの海外の知己を得、また海援隊の坂本龍馬、大隈重信、岩崎弥太郎、陸奥宗光などの志士に資金的な援助をしたりしていた。

 しかし明治になると嬉野茶は横浜港から出荷できる静岡茶に押され売上げが減ってきた。その頃熊本藩士遠山一也が外商から反物を仕入れて熊本で売りさばくことを考えたが、反物の相場が下がって外商への支払いができなくなり、新たに煙草葉を海外に売りこむという詐欺を考え、それに慶は請け人として署名をしてしまったため千二百五十両(現在の1億2千万円程度)を弁済金として支払うことになってしまった.。

 慶は茶葉の売り上げが減少しており、その支払いは大きな負担になったが、ここで逃げたら商法の道にはずれ、日本商人の信用も地に落ちると思い、支払いを二十か月の月払いにして貰い、家屋敷を抵当に入れ、新たに日本の顧客を開拓しやっと完済出来た。明治7年のことで慶は47才になっていた。

 翌明治8年、商人としての信用を取り戻した慶は、大隈重信の計らいもあり横浜造船所を5年間貸与して貰うことにになった。当初は注文が少なかったが、西南の役などで需要が急増し、莫大な利益が出て経営の見通しも立ったため、経営を退くことにした。更に明治13年には政府から高雄丸という蒸気船の払い下げを受ける時の共同出資者となった。
 慶は、海外と交易したい。黒船のような大きな交易船を持ちたいという夢が実現でき、同じ夢を持ちながら志半ばで亡くなった海援隊の同志や支えてくれた番頭などに心から「さよなら」と言える気持ちになった。
 
 その間、明治12年にアメリカの前大統領であるグラント将軍が長崎に立ち寄った時、日本人で初めて茶葉交易に乗り出したとして、女子で一人だけ夕食会に招待された。
 また明治17年には政府から製茶の外輸を図りその功績特に著しいとして功労賞を授与されている。

 この本に書かれている大浦慶は幕末の頃、女性でありながら家業の菜種油の先行きが衰退していくなか、新しいことを始めようとしても同業の商家の主たちは反対するばかりで何も積極的な策を持たないのに飽き足らず、何か無いかと探していて、たまたまオランダの船員の土産を揃えることから茶葉の交易を始めた。

 しかしすべて初めてのことでありその実現のためには生産規模、均一な作業ができる工場の建設、海外の交易商との折衝など多くの問題が山積し、更に江戸幕府から明治維新にかけての大きな政治体制の変換、鎖国から開国に至る諸制度の改変の中で、民間の一商店主であり、しかも当時の男性優位の社会で、女性でありながら夢を実現させたこの物語を、朝日新聞の評者は「朝ドラ、いや大河ドラマにもなりそうだ」と述べている。

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(この項終わり)

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