「北条五代(上)・(下)」
火坂 雅志 伊東 潤
朝日新聞出版 2020年12月発行
戦国時代に勃興し、豊臣秀吉によって滅ぼされた北条早雲から北条氏直に至る五代に亘る、後北条氏の盛衰を描いた「北条五代」という歴史小説は、NHK大河ドラマになった「天地人」などの作者である火坂雅志が平成23年(2011)から平成26年(2014)まで書き進んだが、病のため、平成27年(2015)急逝された。
その後を、同じ時代小説作家である伊東潤が平成29年(2017)から受け継いで書き進め、令和2年(2020)完成させたものである。
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時代は第3代当主氏康が逝去し、第4代氏政の時である。
氏政は永禄2年(1559)に当主の座を受け継ぐとき、父親や兄弟たちの前で 「我らは日々戦いに明け暮れている。だが父祖の時代から一度として不義の戦いをしたことはない、では何のために?民が安楽に暮らせるようにするためだ。我らに歯向かう者たちは、民から搾取し、己の富を増やすことだけを考えている者ばかりだ、だがわれらは違う。われらは天道に従い、正義を敷衍していくのだ。それに賛同できる者は、ついてきてくれ」 と結束を呼び掛け、全員の賛同を得た。
氏康はその後もしばらくの間軍事、外交面を担っていたが、永禄8年(1565)に軍事、外交面も氏政に任せ、元亀2年(1571)に亡くなった。
元亀4年は7月に天正と改元され、武田信玄が亡くなった年である。翌天正5年(1577)氏政は弟の氏規と共に房総半島の里見氏と決戦し、北条水軍が里見水軍を壊滅的に破ったことから里見家と和を結び、関東で敵対するのは佐竹氏だけとなった。 佐竹氏は危機感を持ち、越後の上杉謙信に関東に侵攻するよう依頼した。
しかしながら 天正6年(1578)謙信は関東進攻を目前にして突然死去した。その死後景虎、景勝の跡目争いで、武田勝頼が支援した景勝が勝利し、甲越同盟を結び、関東に進出してきた。
氏政はそれに対抗するために三河の徳川家、更に織田家と提携し、甲信の武田、上杉を牽制して貰うことを視野に入れ始めた。しかし織田家は同盟ではなく、臣従を強いてくる筈なので、それでは早雲以来の家是である「禄壽応穏(ろくじゅおうおん)=禄(財産)も壽(生命)もまさに穏やかなるべし」という北条家が民の命と財産を補償することを誓い、歴代藩主が守ってきた存念に反することになる。
氏政は夜も眠れず悩んだが、天正8年(1580)には武田勢により、上野の国の大半を抑えられ、また佐竹勢によって、下野の国の殆どを攻め取られた。それにより氏政は織田政権の一員になる覚悟をし、家康を橋渡し役としてのぶながに誼(よしみ)を通じることにした。
初代の早雲が今川氏から独立して以来、誰にも従属したことのなかった北条氏が遂にその方針を改めたのである。
それは北条氏が「民のための政治」を目指す特異な存在から、生き残るために手段を選ばない常の戦力大名に変わったことを意味した。
これに対して、信長は、嫡男氏直に家督を譲る事を要求し、また氏直の正室に信長の娘を迎えることになった。天正8年8月に、氏政は隠居し、北条家五代当主の座に氏直が就いた。氏政43才、氏直19才の秋である。
天正10年(1582)3月織田勢によって敗れた戦国最強を謳われた武田氏は滅亡した。しかしその同じ天正10年(1582)6月に織田信長は明智光秀によって討たれ、更に羽柴秀吉によって明智光秀は討たれ、覇権の行方は目まぐるしく変わって行った。
氏直は織田信長が討たれたと知り、甲信領有を目指して攻め入ったが、同じく甲信領有を目指した徳川方と膠着状態に陥った。
天正10年(1582)10月、畿内で羽柴秀吉に対抗すべく織田信雄が家康の助力を申し入れてきたため、甲斐、信濃、上野の領有について、争っていた徳川、北条の間で和睦の機運が高まり、それを機に攻守同盟を結ぶことになり、家康の次女督姫が氏直に嫁ぐことになった。
天正12年3月、織田信雄が反秀吉の兵を挙げた。家康もそれに呼応して小牧・長久手の戦いで勝利したが、11月に信雄が秀吉に事実上の降伏をすることで、家康は戦う大義を失ってしまう。
天正13年になり、秀吉は紀州の雑賀・根来一党を討伐して背後の憂いをなくし、家康に降伏勧告をしたが、応じないので三河討伐を公言するようになった。
しかし11月に畿内を震源地とする大地震が発生し、秀吉の領国は大打撃をこうむり、直ぐに兵を出せないことになった。これにより秀吉は家康を討伐する方針から家臣に取り込む方針に切り替えて行く。
天正14年5月になり、秀吉は家康との間で和議が成立し、秀吉の妹の旭姫が家康に嫁ぐことになった。同年10月には、秀吉は旭姫との面談を名目に実母の大政所を人質代わりに送り込んできたので、家康は上洛して秀吉に拝謁し、その家臣になることを誓った。
天正15年になり、氏直は小田原城の防御力強化に取り組み、領内の主要な城郭も大規模な改修を進め、和戦両様の構えを取ることにした。その間に秀吉は島津氏を討伐し、.九州を平定していた。
天正16年年秀吉は聚楽邸に後陽成天皇を迎えることになり、北条氏にも上洛を要請したが、北条氏側では当主の氏直の要請に応じようとしたが、父の氏政と叔父の氏輝が「さようなことは無用」と言い張って応じられず、秀吉が北条氏討伐の大きな要因になった。
天正18年(1590)3月に沼田領の引き渡しに口実を設け、秀吉は北条氏討伐に踏み切った。秀吉勢は瞬く間に北条方の拠点となる城を攻略し、4月には豊臣勢は7万の兵で小田原城を取り囲んだ。
やがて、6月になると奥州の伊達政宗が秀吉に恭順の意を表し、奥羽各国の後詰の可能性も無くなった。いよいよ進退窮まった氏直は織田信雄を経由して降伏開城と、氏直は自らの腹を切る代わりに城内の下級武士と地下人を開放して貰うことを申し入れ、秀吉の了解を得たので、城内を取りまとめめ7月5日に投降することになった。
その前夜、氏直は父氏政と城内での最後の食事を取った。氏政は「我ら北条家は、関東に王道楽土を築くべく戦い続けてきた。上に誰も頂かず、我らの考える仕置きをしてきた。このまま誰も上に頂かず滅亡する。それこそが、早雲庵様らの御意志ではないか」と語りかける。
北条家は独自の考えで、民百姓の末端に至るまで安堵して暮らせるような仕置きをしてきた。それが豊臣政権の一翼を担うとなれば場合によっては民百姓を裏切ることにもなりかねない。ということである。
翌日の夕刻、白装束に実を固めた氏直は、大勢の将兵の北条家最期の勝鬨の中、最後の命令である「開門」の言葉を下した。
その翌日、7月6日に
・城内の下級武士と地下人の開放は許可する
・氏直は罪一等を減じて高野山に蟄居させる
・氏政、氏照他宿老二人には切腹を申し渡す
との秀吉の沙汰が下った。
氏政は元当主ながら実権を握っていたとされ、氏照はご一家衆の筆頭としての沙汰である。
初代早雲から五代氏直までの百年に及ぶ北条家は幕を閉じたが、家康の関東入部と同時に仕官した旧臣たちによってその仕組みは継承され二百六十余年の太平を築く基になって行くのである.。
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(この項終わり)