イバイチの奥の細道漫遊紀行

[鹿島詣 1]

H24-2-25作成

(1)「鹿島詣」について

 芭蕉が茨城県に来たことがあるというと驚く人も多いと思うが、元禄2年(1687)に奥の細道の旅に出る1年半前、貞亨4年(1687)の陰暦8月14日〜8月15日に中秋の名月を見ようと茨城県鹿嶋市に来たのである。

 中秋の名月の日には、月を愛でながら俳諧を楽しむことが俳人の間では行われており、芭蕉はその前年の貞亨3年には深川の芭蕉庵で月見の会を催して 「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」 の句を残している。鹿島詣の翌年には更科紀行の旅の途中姥捨で 「俤(おもかげ)や 姥ひとり泣く 月の友」 の秀句を詠んでいる。また翌々年の奥の細道でも敦賀で 「名月や 北国日和 定めなき」 「月清し 遊行の持てる 砂の上」 などの句が詠まれている。

 芭蕉は鹿島に住んでいる禅の師匠である仏頂禅師を訪ねて名月を眺めながら旧交を温めようとしたのである。仏頂禅師は鹿島の根本寺21世住職当時、鹿島神宮との間で領地争いがあり、その訴訟のため江戸深川の芭蕉庵にほど近い臨川寺(院)に滞在することが多くあり、その時芭蕉と知り合った。奥の細道では那須黒羽の雲厳寺の仏頂禅師の修行跡をわざわざ訪れて 「啄木鳥も 庵は破らず 夏木立」 の句を読むなど深い係わりがあったことを偲ばせる。(注:イバイチの奥の細道漫遊紀行 [1 深川]、[8 雲厳寺] 参照)

 この鹿島への旅に同行したのは、奥の細道にも同行した門人の曽良と、同じく門人で芭蕉庵近くに住んでいた宗波という禅僧である。芭蕉はこの鹿島行きのことを貞亨丁卯仲秋末五日(貞亨四年八月二十五日)と書いた日付を入れた「鹿島詣」という紀行文として発表した。
 以下その内容を見ながら句碑などをたどりたい。

(2)出立から鹿島まで

 芭蕉と同行の曽良と宗波は芭蕉庵の前から舟に乗り大川(隅田川)に注ぐ小名木川から旧江戸川に入り、千葉県市川市の行徳まで行った。行徳から徒歩で木下(きおろし)街道という県道59号線を歩き、八幡、鎌ヶ谷を経て利根川べりの我孫子市布佐(ふさ)に夕刻着いた。その途中筑波山が見えたと書いている。

 筑波山が見えたというところの原文は 「つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり。---(中略)---“ゆきは不申(もうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな”と詠(ながめ)しは、わが門人嵐雪(らんせつ)が句也。」とあり、雪の筑波も良いがまずは遠く紫に見える筑波の美しさを眺めようとの意である。更に「すべてこの山は、やまとたけの尊の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。」 と述べている。

 これは古事記の日本武尊と御火焼(みひたき)の翁との「にいはり筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と「かゞなべて 夜には九夜 日には十日を」を連歌の起源とし、連歌を筑波の道ということからきている。そのあと筑波山を眺めながら和歌や句を詠まないことがあってはならないと記している。

 実際に木下(きおろし)街道を歩いた時に筑波山が見えたのかどうかは判らないが、方向から見てあまり良い形には見えなかったと思う。利根川沿いの木下付近から望遠で写した写真では秀麗な山には見えなかった。石岡市恋瀬川サイクリングロード方面からの筑波山は、二峯が並び立っている。(写真は恋瀬川サイクリングロードからの常磐道の先に聳える筑波と利根川の先の高圧線左手にある筑波)

 芭蕉は筑波山を褒めたあと、秋の草花もきれいだと秋の七草の幾つかを挙げて記している。原文は「萩は錦を地にしらけんやうにて、ためなか(為仲)ゞ長櫃(ながびつ)に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう(桔梗)・おみなえし(女郎花)・かるかや(刈萱)・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。」とある。

 「萩は錦を云々」は平安時代に橘為仲という陸奥守が帰任する時に、宮城野の萩を掘って長櫃に入れ京に持ち帰って話題になったという故事を引用している。「さをしか(小男鹿)、野の駒」云々はいろいろな秋の花が咲いている野原で鳴く牡鹿や群れ遊ぶ馬が居るのも良いものだの意である。

 続いて 「日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて鮭の網代(あじろ)といふものをたくみて、武江(ぶかう)の市にひさぐもの有。よいのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだして、かしまにいたる。」 と続く。布佐では網代という網で鮭を取り武蔵の国の江戸で売る者が居ると述べ、宿に泊まったが、晴れてきたので夜明け前に舟を出して貰い鹿島に行ったのである。

 千葉県我孫子市布佐の船着き場があった辺りには対岸の茨城県利根町との間に栄橋が架かっている。川幅は広くゆったりとした流れで大河の趣がある。堤防の上はサイクリングロードがずっと続いている。、堤防に沿った「利根水郷ライン」と名付けられた眺めの良い国道356号線を走ると佐原市に着く。国道51号線と交差するのでそこから国道51号線に乗り換え、潮来大橋で利根川を渡って潮来、鹿島方面に行く。(写真は布佐の川岸からの栄橋と利根川の下流方面)

 現在の利根川は鹿島には繋がっておらず、方向を変えて銚子に流れて行くのだが、当時は横利根川や常陸利根川などが鹿島に行く水路になっていたのだろうか。

 国道51号線の旧道で北浦に架かる神宮橋を渡ると間もなく坂道になるが、その手前の左手に根本寺に行く細い道がある。案内板などないので、ナビを装着した車で行くか、良く地図を調べるかして行った方がよい。(写真は北浦に架かる神宮橋)

(3)根本寺

 鹿島では一行は旧知の根本寺の前住職である仏頂禅師を訪ねて清談を重ね、泊めて貰った。しかし 「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。」 と十五夜の月は見られそうもなかった。明け方少し晴れかかったので皆起き出したが月は少ししか見えなかったらしい。 「月のひかり、雨の音、ただあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。」 と、はるばると月を見に来た甲斐がなくて、実に残念だと記している。(写真は根本寺山門)

 そして仏頂禅師の 「おりおりに かはらぬ空の月かげも ちぢ(千々)のながめは雲のまにまに」 の歌があり、そのあとに 「月はやし 梢(こずゑ)は雨を 持(もち)ながら  桃青」 「寺に寝て まこと顔なる 月見哉  同」 「雨にねて 竹起(おき)かへる つきみかな  ソラ」 「月さびし 堂の軒端(のきば)の 雨しづく  宗波」 と芭蕉一行の詠んだ句が記されている。

 根本寺には「鹿島詣」で仏頂禅師と詠んだ時の二つの句碑がある。 寺伝によれば、根本寺は聖徳太子による勅願寺という1500年前の建立であり、その後鎌倉時代に寺領六百石の寄進を受けた歴史のある大寺である。その後徳川幕府から寺領百石を給されていたが、鹿島神宮宮司がそのうち50石を横領したので、当時住職だった仏頂禅師がそれを返還させるために訴訟を起こし、かなり難航したが勝訴した。(写真は根本寺本堂)

 仏頂禅師は、その時寺社奉行に出頭するため江戸深川の臨川寺(庵)に滞在し、芭蕉と知り合ったのである。その後この寺は幕末の天狗党の乱の際に兵火に罹り、荘厳を極めた伽藍も全て失い往年の面影を失ってしまった。そのあと暫く衰微していたが昭和56年に本堂を再建して現在の伽藍に回復したという。本堂手前にかなり年代を経た 「月はやし 梢は 雨を持ながら」 の句碑がある。(写真は月はやし---の句碑)

 また寺院門前には比較的新しい 「寺に寝て まこと顔なる 月見哉」 の句碑が置かれている。

 根本寺には2回ほど訪れた。1回目は1月3日だったので、鹿島神宮は初詣の車が長蛇の列を作っていたが、この寺は人影は無く、静寂の中で芭蕉と仏頂禅師を偲ぶのに絶好の場所だった。(写真は寺に寝て---の句碑)

(以下次号)

注1) 写真をクリックすると大きくなります
注2) 青字は「鹿島詣」の原文です。