イバイチの奥の細道漫遊紀行

[おくのほそ道の俳句(5)]

H27-5-25作成


「おくのほそ道の俳句(5)」は前回に引き続き山中の後半から、むすびの地大垣までの六句である。

 山中    39  行々(ゆきゆき)て たふれ伏とも 萩の原    曾良

         40  今日よりや 書付消さん 笠の露

 敦賀   41  月清し 遊行のもてる 砂の上

        42  名月や 北国日和 定めなき

 種(いろ)の浜

       43  寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋

 大垣   44  蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

 

 山中での芭蕉は前半では温泉に浸かり、付近の名所を散策したり、土地の俳人と俳諧談義をしたりしてのんびりと逗留していたが、後半では曽良との別れがあり、慌ただしい雰囲気になった。

 「おくのほそ道」本文では、「行(ゆく)ものの悲しみ、残(のこる)もののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。」(「別れて先に行くものの悲しみ、後に残るもののうらみはともに胸に迫り、一羽の鳧(けり=チドリ科の渡り鳥)が別れて、雲の中に迷うようなものだ」)と記している。

 曽良の句は、ここで師と別れて先に行くが、体の具合が悪くて万一倒れても思い残すことは無いとの覚悟の句であり、芭蕉の句は、今まで一緒に旅を続けてきたが、別れる事になり笠に書き付けた同行二人の文字を消さねばならない、人との交わりははかないものだ。との意である。

 この後、芭蕉は丸岡から永平寺を経て福井、武生を過ぎて敦賀に着いた。その日は8月14日(陽暦9月27日)で、中秋の名月の前夜であり晴れて月が良く眺められた。宿の主に明日の十五夜も晴れるだろうかと聞いたが、明日の天気は保証できないと言われてその夜の内に気比神社に参拝した。

 その時、遊行上人が道を直すのに自ら先頭に立って砂運びをした話を聞いて「月清し‐‐-」の句を詠んだ。

 翌十五日は宿の主が言っていたように雨だった。

 十六日は晴れたので、誘われて舟に乗り、敦賀から海上7里ほどのところにある種(いろ)の浜と云う所に行ったが、寂しい浜で僅かな漁師の家と小さな寺があるばかりだった。と 「おくのほそ道」に記している。

 敦賀からは北国街道を南下して木之本を通り、関ヶ原から中山道に入って大垣まで行ったと思われるが、 「おくのほそ道」にはその間のことは馬に乗った事以外は何も記されておらず、大垣で先に行った曽良をはじめとする大勢の俳人たちに歓待された様子を「蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたわる。」(「死の世界から生き返った者に会うように、あるいは喜んだり、あるいは苦労をいたわったりしてくれる。」)と記している。

 そして大垣に2週間ほど滞在した後、伊勢神宮の遷宮を拝もうと舟で旅立つのである。

 芭蕉がおくのほそ道への旅立ちは3月27日(陽暦5月16日)の千住からであり、むすびの地大垣到着は8月20日(陽暦10月3日)と思われる。その間六百里を140日で踏破した後、2週間休んだだけでまた新たなる旅を始めようとしている。

 「おくのほそ道」の冒頭で芭蕉は「月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、」と述べており、漂泊の旅に生きる芭蕉の面目躍如たるものがある。

 春に千住を出発する時の矢立初の句、 「行春や 鳥啼魚の 目は泪」 で始まった旅に対し、秋の大垣でのむすびの句 「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」は月日の移り変わりを表し、旅の終りは新たなる旅の始まりである事を示す句である。

(この項終り)