「おくのほそ道の俳句(4)」は象潟から酒田に戻り、北陸道を金澤を通って山中温泉までの次の八句を
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越後路 31 荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)
市振 32 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月
那古の浦 33 わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯(ありそ)海
金澤 34 あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風
35 塚も動け 我泣(わがなく)声は 秋の風
小松 36 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす
那谷 37 石山の 石より白し 秋の風
山中 38 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂(にほい)
芭蕉一行は酒田を発ち、越後路に入った。村上、新潟、弥彦、出雲崎と続く越後路の旅の記述はほとんど無く、「病おこりて事をしるさず」の後に俳句を2句記しただけである。しかしそのうちの「荒海や--」の句は芭蕉の最高傑作といわれている。
「おくのほそ道」の旅の後、芭蕉はこの句に「銀河の序」という文章を付けた。出雲崎の芭蕉園という名の小公園には芭蕉像と「銀河の序」を刻んだ碑が置かれている。
更に柏崎、直江津、高田を過ぎ、親不知の難所を越えて市振に泊った時、哀れな遊女との出会いがあり、「一家(ひとつや)に- - -」の句を作っている。
市振を過ぎると越中路に入る。富山湾は有磯海と云われ、那古の浦と共に万葉の歌人大伴家持以来の歌枕の地である。
高岡を過ぎ、倶利伽羅峠を越えると加賀の国、金沢である。金澤に入ったのは7月19日(陽暦8月29日)で、ここで9泊している。残暑が厳しいなか少しづつ秋の気配が漂ってくる。
金澤では一笑という俳諧の友に再会するのを楽しみにしていたが、前の年に亡くなっていた。追善の句会で芭蕉は追悼の一句を吟じた。
小松では多太神社に詣でた。此処には斎藤実盛(さねもり)の兜が木曽義仲によって奉納されていた。斎藤実盛は源平合戦の時代、源義朝に仕えていたが、幼少の義仲が一族の争いで殺されかかったのを救い、木曽に逃れさせた。その後平氏に仕えるようになり、この地で義仲軍によって討たれたが、その時高齢を隠すため髪を黒く染めていたのを不審に思って首を池で洗うと白髪が現れたので恩人の実盛だと判り涙を流して慟哭したということから謡曲「実盛」が創られた。
那谷寺とは西国三十三ヵ所札所の巡礼を行った花山法王が第一番札所の「那智」と最後の第三十三番札所の「谷汲」から一時づつ採って名付けられたと云われている。
芭蕉は山中温泉で宿泊した泉屋の14歳の若主人に「桃妖」の俳号を与え、「温泉の頌(いでゆのしょう)」という一文を残している。「北海の磯づたひして、加州やまなかの涌湯に浴ス 里人の目、このところは扶桑三の名湯のその一なりと まことに浴する事しばしばなれば 皮肉うるほひ筋骨に通りて 心神ゆるく偏に顔色をとどむるここちす 彼桃原も舟をうしなひ 慈童が菊の枝折もしらず はせお
やまなかや 菊はたおらじ 湯のにほひ 元禄二仲秋日」
中国の伝説にある桃源郷では菊慈童が菊の花を手折り、その夜露を飲んで何百年も長生きしたと言うが、山中の湯はそんな必要も無い名湯だと褒めている。「扶桑三の名湯」とは有馬、道後、山中の各温泉である。
(以下次号)