イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 五智国分寺 ]

H22- 1-25作成 

上越市琴平神社

 曽良旅日記によれば陰暦6月25日(陽暦8月10日)に酒田を発った芭蕉一行は村上、新潟、弥彦、出雲崎と歩を進めて、陰暦7月6日(陽暦8月20日)に直江津に着いた。出雲崎の次の宿泊予定地は柏崎で紹介状もあったが、気に入らないことがあって次の宿場の鉢崎に泊った。直江津でも宿泊予定の寺が忌中で泊れず、すったもんだしたが、雨が降ってきたので別の家に泊ることになった。夜句会が開かれ、その時の発句が当日の七夕前夜を詠んだ 「文月や 六日も常の 夜には似ず」 の句である。その句碑が旧直江津市と旧高田市が合併して出来た上越市の琴平神社にある。

 市街を流れる関川河口にある琴平神社は宮司も居ない小さな神社だが、境内にある句碑は立派なものである。同じ敷地内に安寿と厨子王の説話にある淋しく死んだ安寿と乳母の供養碑がある。由来にはこの直江津で山椒大夫に騙されて母親と離れ離れに人買いに売られたのを後世の人が哀れんで建てたものだと記してあるが今は訪れる人も無く、日本海からの強風が吹き付けるばかりである。
 安寿と厨子王の説話は、「陰謀によって西国に流された父のために、安寿と厨子王、母、乳母の4人は、岩代(福島県)の信夫(しのぶ)郡から京へ旅立つ。越後の直江津にたどり着いた一行は、ここで人買いにだまされ、母、乳母は佐渡に、姉、弟が丹後(京都府)に売られてしまう。丹後の由良で山椒大夫に買い取られた2人は姉の安寿は汐汲み、弟の厨子王は山へ柴刈と過酷な労働を強いられる毎日を過す。ある日姉は母から託された守り本尊の地蔵を弟に渡し屋敷からの逃亡をうながすがひどい拷問にあい命を落とす。一方厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着き、地蔵がとりもつ縁で関白師実に見出される。よくよく尋ねてみると、厨子王はじつは陸奥掾(じょう)正氏の子であることが判明する。父の跡を嗣いだ厨子王は正道と名を改め、天皇から丹波の国司に任ぜられる。出世した正道は母を迎えに佐渡に渡りこの地で盲目となった母と出会う。」というものである。

 芭蕉は七夕の日も雨だったので直江津に留まったが、曽良の俳諧書留には七夕として 「
荒海や 佐渡に横たふ 天河」 の句が記されている。出雲崎で想を得たものが直江津で完成したと思われるが、柏崎、直江津で宿を断られたりした不快な思いが「銀河ノ序」ノ舞台を出雲崎にしたのだといわれている。

五智国分寺

 陰暦7月8日高田の細川春庵(俳号棟雪)宅に移り3泊するが、その時の句会で 「薬欄に いずれの花を くさ枕」 の発句を詠んだ。春庵は医師であり、薬草園があったので挨拶句として薬欄の言葉を入れたのだろう。その句碑が琴平神社から海岸沿いの道路を1〜2キロほど行った五智国分寺にある。芭蕉は春庵に句の真蹟を与え、それが五智国分寺に奉納されたと鈴木牧之の「北越雪譜」に書かれているそうで、その縁があって文化13年(1816)に句碑が建立されたという。
 句碑の右手に、幕末に着工し未完成で終わった三重塔(県文化財)が、未完ながらも美しい姿を見せている。正面には昭和63年の火災で焼失後、平成9年に再建された新しい本堂がある。奈良時代の越後の国分寺は海中に没しており、その後親鸞聖人が罪を得て流された国分寺跡も場所が不明なのだそうで、現在の寺はこの場所に上杉謙信が再興したものである。 

 五智国分寺の名称は本尊が五智如来(阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、宝生如来、釈迦如来)であるところからきている。大日如来は太陽のごとく万物を慈しみ五穀豊穣の功徳を表し、薬師如来は病魔を退散させる医薬の功徳を、宝生如来は福徳財宝の功徳を、また阿弥陀如来は極楽往生の功徳を表している。なお、教理のうえで五智とは、大日如来の五つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作地)を意味しているそうである。これら五体の如来像も昭和63年の火災で焼失したという。

 親鸞は35才のときこの地に配流され、国分寺近くにある居多ヶ浜という浜辺に上陸し、越後一の宮である居多(こた)神社に参詣後、五智国分寺境内にあった竹之内草庵の粗末な流罪服役小屋で数年を送った。現在の五智国分寺境内に、その服役小屋が再現され、親鸞聖人腰掛石などが置かれている。また親鸞聖人の大きな銅像が建てられている。芭蕉は高田を出立の後、五智国分寺と居多神社に参詣し名立に向かったと曽良旅日記に記されている。
(写真は親鸞上陸地点の説明と五智国分寺境内の親鸞像)


林泉寺

 五智国分寺から高田の方に2キロほど行くと、上杉謙信の居城だった春日山城跡とその麓に林泉寺がある。林泉寺は謙信が幼少年時代を過ごし、文武の修行を積んだところで、入り口に春日城から移築されたという萱葺の惣門がある。その先に立派な山門があり、謙信が書いた「春日山」の扁額が掛けられている。裏側には同じく謙信筆の「第一義」の大額が掲げられている。双方とも雄渾な筆跡である。更に進むと本堂があり、その左手の山中に大きな五輪塔の謙信の墓所がある。此処は越後国の守護代長尾家の菩提所として創建されたのだが、謙信の嗣子上杉景勝が会津に移封後の越後領主となった堀氏、さらに春日山城から高田城に移った越後中将松平氏、その後を引き継いだ榊原氏の菩提所ともなっている。
(写真は林泉寺惣門と山門)
 

 謙信の居城だった春日山城跡は、中世の山城のおもかげをよく残し、国の史跡に指定されており、坂道の上にある城跡の中腹に当たる高台に、謙信の像が建てられている。その隣に謙信を祀った春日山神社がある。この神社は明治時代に、旧高田藩士だった童話作家小川未明の父が米沢の上杉神社から分祀したもので、未明もここの出身である。’09の大河ドラマ「天地人」にあるように、上杉家は越後から会津へ、更に米沢に移封されたので上杉謙信を祀った上杉神社も米沢に置かれているのである。

能生

 国道8号線に戻り、名立を過ぎて能生に行く。能生には白山神社という北陸街道を往還した旅人が必ず参詣した社がある。大きな入母屋造り、茅葺きの拝殿は江戸時代中期の宝暦5年の建立で、国の重要文化財になっている。芭蕉はこの地で宿泊した時、海の潮が満ちてくると誰も触らないのに一里四方に鳴り響いたという「汐路の鐘」の話を聞き、 「曙や 霧にうつまく 鐘の声」 の句を詠んだという。
 芭蕉はその鐘の由来を記した俳文と句を残し、それを刻んだ碑がこの神社の境内にある。200年以上前に建てられたというが 「越後能生、汐路の名鐘  むかしより能生にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へさりしと。此鐘汐の満来らんとて人さはらすして響くこと一里四面。------猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも誰ありてこれを知る人なし。 曙や霧にうつまくかねの聲  芭蕉」 の刻文である。 芭蕉は「おくのほそ道」では越後路については殆ど記して居らず、曽良旅日記や「銀河の序」やこの「汐路の鐘」の文によって補足されるばかりなのだが、この俳文の真蹟はこの碑が建てられた数ヶ月前に能生の大火で消失しており、現在は芭蕉の作かどうか分からぬ存疑の作とも云われているということである。
   (H16-10-12訪)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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