イバイチの奥の細道漫遊紀行
[ 越中路 ]
放生津八幡宮
国道8号線の道の駅「越後市振の関」を過ぎると富山県に入る。当初は句碑を訪ねながら8号線を行く筈だったが、予定時間から大幅に遅れてしまったため、朝日ICから北陸自動車道で富山西ICまで行った。途中の有磯海SAに 「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」 の句碑がある。
おくのほそ道では越中について記した段は、 「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠(たご)の藤波は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、『是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ』といひをどされて、かヾの国に入。 わせの香や分入右は有磯海」 とあるだけで越後路の記述同様簡素なものである。
芭蕉は市振の次に滑川(なめりがわ)に泊った後、富山湾沿いの浜街道を放生津に向かった。国道415号線を行くと昔の潟湖,現在の富山新港に出て、海王丸パークの案内標識を見ながら走ると新湊市(現在射水市)の放生津八幡宮に着く。
此処は越中の国守をしていた大伴家持が宇佐八幡宮から分霊して祀った社だという。境内には佐々木信綱筆の、家持の大きな歌碑が建っている。「安ゆ(北東)の風 いたく吹くらし奈呉の海人(あま)の 釣りする小舟こぎ隠る見ゆ」
と刻まれている。その裏手の海岸の方に老松があり「奈呉之浦」との石柱がある。大伴家持以来、このあたりは奈呉の浦として歌枕になっていたのである。
家持の歌碑から少し離れて芭蕉の 「早稲の香や 分け入右は 有磯海」 の古い句碑がある。芭蕉の百五十回忌(天保14年)に建立されたものである。 有磯海も歌枕のひとつであり、大伴家持が詠んだ「かからむと かねて知りせば越の海の 有磯の波も見せましものを」 が出典になっている。放生津八幡宮の拝殿前には江戸中期に奉納された大きな木彫りの阿吽の狛犬があるのが目を引いた。
担籠(たご)の藤波は藤原縄麿の「たこの浦の 底さへ匂ふ藤波を かざして行かむ見ぬ人のため」 の歌枕の地で氷見市にある。この歌は家持の「あゆの風---」と共に万葉集に載せられているそうである。芭蕉はこの八幡宮あたりから海を眺めたが、行こうとした担籠(たご)の藤波は 「蘆の一夜の宿かすものあるまじ、といひをどされた。」 として高岡に向かったのである。
高岡瑞龍寺
高岡は加賀前田家第二代藩主の前田利長が高岡城を築いてから発展した所である。1609年(慶長14年)に、加賀藩二代藩主前田利長が、この地に城を築き、詩経の「鳳凰鳴矣干彼高岡」(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)からとって高岡と名づけたが、6年後の元和元年(1615)に「一国一城の令」により高岡城は廃城となり、城下は急速に衰退した。しかし利長の異母弟であった三代藩主利常は、利長の遺志を継いで手厚い保護のもとに高岡を商工の町へと転換し発展させたのである。
高岡を代表する観光拠点である国宝瑞龍寺は、三代藩主利常が利長の菩提を弔うために造営したものであるが、加賀・能登・越中は前田利家が領有する前には一向一揆が支配し、秀吉が全国を統一する十年ほど前までおよそ百年間、念仏の共和国が存続していた所である。利家は真宗寺院に対し懐柔策を採ったが、それと並行して武力の準備も怠らなかった筈で、当時の境内は約4万坪という広大なものであり、周囲に2重の堀を廻らし高岡城廃城の後、一旦緩急あれば城郭としての機能も果たす役割もあった。
駐車場から八町道という長い参道を行くと重文に指定されている総門の前に出る。案内人の後から総門を潜ると一面の白砂が敷かれた広場があり、その先に国宝に指定されている壮大な山門が姿を現す。雨模様の天気だったが左右に東司と浴室を配置し、白壁と杉皮葺の回廊で結ばれた山門は、重厚さと威圧感を漂わせている。(写真は山門)
白砂の広庭の中を総門から続く石畳を行くと、山門の先は青々とした芝生で覆われその中を石畳が一筋の線になって仏殿(国宝)から法堂(国宝)に続いている。前庭の白砂と緑の芝生との対比が鮮やかである。仏殿の瓦屋根は鉛で出来ていて一旦緩急ある時は鋳つぶして弾丸にするためだといわれている。しかし鉛はかわらの表面を薄く覆っているだけで普通のかわらより軽く、雪の滑りも良いとの事であり、また白銀に輝き見栄えもするので、実際はその全ての理由だったのかもしれない。(写真は仏殿)
仏殿(国宝)の内部には釈迦、文殊、普賢の三尊が祀られ、間近に拝することが出来る。仏殿の左右には緑の芝生を隔てて雲水が起居し、座禅を組む禅堂と食事を作る大庫裏がああり、仏殿を囲んで山門から法堂まで回廊で結ばれている。その禅堂,大庫裏,回廊はすべて重要文化財に指定されており、国宝の山門,仏殿,法堂と共に江戸初期の禅宗伽藍建築として威容を誇っている。 しかし明治初期の神仏分離令の頃は、ご他聞に漏れず苦境をしのぐために土地や建物の切り売りをして仏像も散逸し、平成9年に国宝指定を受けるまでには大庫裏の玄関が他の寺院にあったのを発見して戻してもらったりするなど苦労の連続だったという。(写真は仏殿内部)
芭蕉はもとより前田家菩提寺である瑞隆寺に立寄る訳は無く、高岡旅篭町に泊った。暑くて大分疲れた様子で曽良は 「翁、気色勝れず、暑極て甚」 と記している。翌日は市内を流れる小矢部川に出て、舟で石動(いするぎ)まで遡り倶利伽羅峠に向かったといわれる。
(H16-10-13訪)
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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 緑字は「おくのほそ道」の文章です。